深海通信 はてなブログ版

三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

同人誌レビュー:『原子間諜 ―原子の城〔アトムスク〕―』

これから出るよその同人誌を勝手に宣伝します。

 

『原子間諜 —原子の城〔アトムスク〕—』
著者:嘉密斉・史密斯(カーマイケル・スミス)
翻訳:森井勝利
刊行:綺想社
価格:6,000円

 

 本作は「人類補完機構」シリーズで知られるコードウェイナー・スミス(=ポール・M・A・ラインバーガー)が「スキャナーに生きがいはない」(1950年)でSF作家としてデビューする以前、カーマイケル・スミスの名で1949年に刊行した「プロの諜報機関員」を主人公とする著者唯一のスパイ小説である。

 冷戦下で書かれた最初期のスパイ小説として歴史に名を残している本作は、エリック・アンブラーに代表される「素人が国際的な陰謀に巻き込まれる小説」(『スパイへの墓碑銘』(1938)、『ディミトリオスの棺』(1939)など)とも、またイアン・フレミングのような「娯楽的な要素の強いヒーロー小説」(『カジノ・ロワイヤル』(1953)など)とも一線を画する。後述するが、むしろ先日亡くなったばかりのジョン・ル・カレの作品を十数年先取りしたような部分が見られる。

 主人公のマイケル・A・デュガン少佐は米陸軍に所属する伝説的スパイである。彼は第二次世界大戦中、大日本帝国陸軍の中枢部に潜入しその内情や計画を本国に送り続けていたというキャリアを持つ。本書は彼がGHQの本部に呼び出され、新たな任務を与えられる場面から始まる。ソビエト連邦中華人民共和国の国境線である沿海地方の森の中に隠された原子力研究施設、通称「アトムスク」に潜入し、さらに痕跡を残しながら脱出することで、アメリカ合衆国に情報をもたらしつつソ連上層部に疑心暗鬼を生じせしめよ、という極めて困難な任務を彼がいかにして成し遂げるか。その苦闘を描くのが本書の大要である。

 本書の特長の一つはその描写のリアリティにある。スミス=ラインバーガーは戦前はデューク大学で極東情勢の研究を行っていたが、その関係で米陸軍に少尉相当で所属し戦争情報局の立ち上げに携わった。「心理戦」(Psychological Warfare)の専門家としても知られ、後に戦中の経験を踏まえてPsychological Warfare(1948、『心理戦争』として邦訳あり)を著している。この本は現在でも該当分野における古典として高く評価されており、入手も容易である。そして、父が中華民国時代の政治家たちと繋がりを持っていたこと(ラインバーガーの漢名「林白樂※」の名付け親は、なんと孫文だという)、また軍務で中国に滞在した経験も含めて当時の極東を肌で知っていた。このようなラインバーガーの背景が本書には色濃く反映されている。

 例えばデュガンは日本を振り出しに満州、中ソ国境地帯、そしてソ連へと潜入していくが、その中で描かれる町や村、人々の風俗は極めて緻密に、見てきたように描かれている。また、「人間兵器」と呼ばれるデュガンは「国と国の心理戦」の尖兵としての役割を果たすと同時に、行く先々で出くわす危機を乗り越えるために心理戦の技術を利用して人々の心理を読み取り感情や行動を巧みに操る。怪力無双でも精力絶倫でもなく、荒唐無稽なスパイアイテムも持たない「ただの男」の物語として、本書は地に足が付いていると言えよう。

 しかし、単にデュガンの活躍を描くというだけに終わっていないのが本書の興味深い点である。デュガンは通称「ミスター・エニバディ」、特別な化粧も扮装もなくありとあらゆる人間を演じることができる人間だ。しかしそれは同時に、彼が「何者でもない(ノーバディ)」存在であることをも意味する。常に誰かを演じているがゆえに、自分の心さえもはや分からなくなった、任務に生きるほかに生きる道を失ってしまったスパイ。極めて矮小な、しかし圧倒的にリアルなスパイ像を描き出したという点で、本書は現代的なスパイ小説の嚆矢と言える。コードウェイナー・スミスのファンのみならず、スパイ小説愛好家、またその歴史や成り立ちに興味を持つ読者の手にも、この翻訳が届くことを期待して已まない。

※デュガンが大日本帝国陸軍に潜入していた時の仮名が「林中尉」である点は、本書の自己言及的な性質を鑑みて興味深い事実と言える。

 

 本書は2020/12/19(土)より書肆盛林堂にて一般販売が開始となります。購入希望の方は、以下のURLからアクセスしてください。
http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca4/703/p-r4-s/