深海通信 はてなブログ版

三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

『姿なき招待主』と『そして誰もいなくなった』の「差異」、あるいはメディアミックスの功罪

---本稿は『姿なき招待主』、『そして誰もいなくなった』、『九番目の招待客』のネタバレを含みます。読了の上でお読みください。---

 

2023年、二冊の本がさほど時間をおかず刊行された。9月末に国書刊行会から出た『九番目の招待客』(オーエン・デイヴィス、白須清美訳、以降『客』)と、12月頭に扶桑社ミステリーから出た『姿なき招待主』(グウェン・ブリストウ&ブルース・マニング、中井京子訳、以降『主』)である。『客』は、『主』を翻案した戯曲版であるが、世に出たのは前者の方が先であるという。この奇妙なねじれ現象については、『主』巻頭に収録されたカーティス・エヴァンズによる序文を参照されたい。

さて帯にもあるように、『主』(と、それを翻案した『客』)のプロットにはアガサ・クリスティーそして誰もいなくなったのそれと類似している部分がある。1930年と1939年。この二作の発表年代から言えば『主』は「先行例」と言って間違いではない。しかしその一言で片づけてよい作品でないのも確かだ。作品の価値は共通点ではなく、その作品独特の「差異」の部分にこそ現れる。『主』と『そして誰もいなくなった』との、大きな差異とは何か……ズバリ、それは「動機」の部分に現れる。

そして誰もいなくなった』の犯人の動機は、端的に言えば「裁かれざる罪人を裁くこと」である。そのために「犯人」はイギリス中から「知られざる犯罪者」を「兵隊島」に集め、次々に殺していく。この作品の犯人は本来裁かれるべき者が縛鎖を逃れ、のうのうと生き延びているという「現実」、「司法の限界」に直面した。彼にとって罪の軽重は問題ではない。「裁かれない」ことへの憤りが彼をして自らを狂わしめたのだ。「人は量り、神は裁く」とはマタイ福音書の言葉だが、まさに彼は「人」の矩を超えて神たらんとした存在であった(その彼が、「死してのちに蘇る」というトリックは宗教的に意味深である)。

それに対して『主』の犯人が、その実呼び集めた客のほとんどを殺す動機を持たないことには驚かされる。「優秀な人間に勝つことで己の優秀さを証明したい」「不道徳な人間を皆殺しにする道徳の守護者として振る舞いたい」「重要人物が死んだ後に生ずるだろう様々な利益を独り占めしたい」と支離滅裂に動機を語る犯人の姿について私は、一人一殺の冷酷な殺人トリックを弄する冷徹さと比較して「子供っぽい」と解説に書いたが、改めて読み返してみてもそれらは薄っぺらくて、嘘くさい、後付けのものであるようにしか見えない。

『主』の物語の「動機」面で興味深いのは、実は殺意が円環様になるように登場人物が設定されているという点にある。Aを憎むBは、実はCに憎まれている。そのCはDに憎まれていて……という殺意の連鎖が、犯人の正体を見破らせない仕掛け(「Bが犯人として、Aを殺したとしてもCやDを殺す理由はないはずだ」という認知)に繋がっているのだ。それは犯人にとっても同じことである。(自分を除く)七人の招待客のうちで唯一彼が本心から憎んでいたのは、彼を大学から放り出したマレイ・チャンバーズ・リード教授であり、それ以外は付け足しに過ぎない……いかに彼が妄言を吐こうと、そう考えるのが自然ではないか。

よく思い出してみて欲しい。この物語の中で殺される(あるいは殺されかけた)六人の被害者のうち、犯人によって直接殺害されたのは教授ただ一人であるということを。それ以外の人物が、自ら盛った毒で中毒死、秘密を暴露される恐怖に心停止、怯えた時の脚癖を突かれて中毒死、自滅に近い感電死、万年筆の頭を噛む癖を突かれての中毒死、と犯人の弄するトリックで殺された(殺されかけた)ことを考えると、「銃殺」という殺害方法には違和感を持った人も少なくないと思う。作者は種切れになったのか? そうでなければなぜただ一人直接手を下したのだろう……発想を逆転させよう。つまり「彼だけはどうしても自ら手を下したかった」のではないだろうか。

多くの死の中に自分にとってどうしても殺したい相手を被害者として混ぜ込む。「一人を殺すよりも大勢を殺す方が捕まりにくい」というこの逆説的欺瞞がチェスタトンの短編から、その後多くの作品に(もちろんクリスティーの某長編にも)取り入れられたのは周知のとおりである。とはいえ、まさかクリスティーが本作を読んであの連続殺人物の小説を構想した、と語る酔狂な人はいないだろうが(笑)

そう考えると、本作はクリスティー的発想が一つどころかいくつも盛り込まれた大変贅沢な作品と言えるのではないだろうか。

---
ところで、『主』の解説でも書いた通り、『客』は『主』の肝心な部分をいくつも改変している。時間的制約や、殊に「戯曲」という媒体の都合上どうしても必要な変更であったようだが、残念ながら上記のチェスタトン・トリックの香りはまったく抜けてしまっていて、サスペンスは三割減というところである。もちろん、出たこと自体は慶賀すべきことであるが、わざわざこの戯曲を読むくらいなら、小説を読む方が数段面白い、値段も半分だし、というのは付け加えておこう。