深海通信 はてなブログ版

三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

デレク・B・ミラー『砂漠の空から冷凍チキン』(2016)

2013年、『白夜の爺スナイパー』集英社文庫、2016年)でデビューした作家の第二作です。前作を大絶賛した身としてはかなり期待して読み始めたのですが、正直よく分からない部分が多々ありました。

砂漠の空から冷凍チキン (集英社文庫)

砂漠の空から冷凍チキン (集英社文庫)

 

第一部「初春」は、1991年、湾岸戦争が始まったばかりのイラクが舞台です。

物語は、アメリカ陸軍の新兵で19歳のアーウッドがイギリス人の新聞記者で39歳のベントンと出逢うところから始まります。名だたるタイム紙の記者でありながら、同僚と比べてまるでうだつのあがらないベントンは最後の一発逆転を賭けて軍事緊張地点の一つズールー検問所にやってきたのです。果てしない見張りに飽き飽きしたアーウッドは軽い気持ちでベントンを軍事境界線の内側に入れてしまいますが、折悪しくイラク軍の攻撃ヘリコプターが街に襲来。女子供も老人も容赦なく意味なく殺される最悪の状況で、ベントンは一人の少女を救い軍事境界線まで連れ帰ることに成功しますが、しかし、ベントンとアーウッドの目の前で彼女はイラク軍の大佐に射殺されてしまいました。

結果、アーウッドは不服従により軍隊を「非名誉除隊」され、ベントンは得る物なくイラクを去ることになります。その二人の22年後の新たな「冒険」を描くのが、第二部以降の物語です。

その第二部「長く、冷たく、厳しく、そして暗かった」は、2013年、妻の不倫がきっかけで家族が崩壊寸前にあるベントンの元にアーウッドから電話が掛かってくるところから始まります。実に22年ぶりに連絡を寄こしたアーウッドは、「ビデオを見た」「イラクでテロ組織の攻撃を受けた人々の中に「彼女」がいた」「「彼女」を救うために俺もお前もイラクに行かなければならない」と断言。61歳のベントンを、半ば強引にイラクへと連れて行ってしまいます。22年前に死んだはずの少女と瓜二つの女の子を救うべく二人はミッションに取り組むことになるのですが……

 

正直なところ、物語という意味では本書は第一部だけで成立しています。救えなかった少女の姿はタイトルにも取られている「砂漠の空から冷凍チキン」というフレーズからも滲む米軍の酷過ぎる体制(「天才が考えだし無能が運営している」)をまざまざと思い知らせる代物で、現実にそのようなことがあったかもしれない、と読者の脳裏に刻み込むに充分な威力がありました。では、作者はなぜわざわざ第二部以降を書いたのか。

 

本書において、ベントンというキャラクターは非常に分かりやすい立ち位置にあります。一発逆転を賭けた体当たり取材は失敗に終わり、結局うだつは上がらぬまま20年を無為に過ごした彼は、妻に浮気され、娘とは心が離れ、仕事はクビ寸前。もはや新聞も読まずニュースも見ず、下らないテレビ映画を見ることで無聊を託つ在り様です。そんな彼がアーウッドに引き摺り回されるままイラクで死線を潜り、一種の英雄となって家に帰るまでの物語……と第二部を捉えてもあながち間違いではないでしょう(実際、本書の帯や裏表紙のあらすじは概ねその線で本書を紹介しています)。

でも私はそんな「分かり切った物語」ではとても満足できませんでした。もう一人の主人公、アーウッドはいかなる人物かという疑問に納得のいく答えを見いだせない限り、私にとってこの本は読み終わったことになりません。

以下、再読精読が不足しているため必ずしも正鵠を射た読みとは言えない部分もあるかと思いますが、自分なりの考えをまとめ、この本を読み終わりたいと思います。ということで、これ以降はいささか妄想的になり、また未読者の方にとって興を殺ぐような内容となるかもしれません。ご容赦を。

 

さて、アーウッドとはいかなる人物なのか。1991年の戦争、また非名誉除隊での彼の行動を見る限り、彼は「非常に空虚な人物」であるかのように外面上描かれています。なぜそのように見えるかというと、本書において彼の思考や感情を慮るような描写が限りなく排除されているからです。彼は、読者にとってもベントンにとっても「何を考えているか良く分からない人物」なのです。ここで特に大きな問題なのが、本書を読み進める動機(感情移入)の核となるだろう、「なぜ縁も所縁もない少女にそこまで拘るのか」という行動原理を、彼が説明してくれないことです。命がけであることも含めて、彼の行動の外見はほとんど狂人のそれ。巻き込まれてしまった以上、ベントンは意味不明でもついていくしかありませんが、少なからぬ読者が「意味が分からない」と本書のページを閉じてしまうことでしょう。

反面、彼は理性的でかつ打算的な人間です。武器商人として成功するには当然そういった素養は必須ですし、ベントンや協力者である人々には説明していませんが、無事脱出するための数々の「伏線」を用意した上で今回のミッションに臨んでいます。目的を達するためには手段を選ばない強引さはあっても、それはあくまでも合理的なもの。彼は決して狂人ではありません。「狂人のように見える」が狂人ではない。本書を読み解くカギは、この矛盾を説明する「目的意識」、すなわち「Why?」がアーウッドの具体的には描かれない内面にあったかどうか、です。

アーウッドが今回イランにやってきたいくつかの目的のうち、最も明確なのは「大佐を殺すこと」です。「あの瞬間」自分の取れなかった行動を完遂し、救えなかった少女の仇を討つ。少女を探す旅路の途中、補給を言い訳にふらりと消え、ふらりと戻ってきた彼の口からポツリと語られたこの行動は、彼の言う「少女の救出」が、必ずしも彼にとって最優先の目的ではないことを物語っています。

では、彼の真の目的とは何か。ここからは完全に妄想(というかもっとしっかり書いておいてくれ……)になりますが、それは「ベントンに借りを返すこと」ではなかったか? 彼が行かせなければ、少なくともベントンは一人の少女の死に直面することはなかったし、もしかしたら空虚な人生を送ることはなかったかもしれない。すべてのしがらみを捨てて放浪し、武器商人になったアーウッドがベントンには執着していた(教えてもいない連絡先を22年後でも把握している、あるいは「調べればすぐに分かる」と言いきれるのは正直怖い)というのは示唆的です。アーウッドがベントンに、多少歪んではいるかもしれないが友情と、同時に引け目を感じていたのではないか。それを清算する、ベントンが「命を救い英雄になる」最後のチャンスとして、アーウッドが用意したのが今回のミッションだったのではないか、というのが私の読解です。

アーウッドの言動をもう少しきちんと読み返すと、この辺りの根拠が取れそうなのですが、金の出る仕事でもないのでちょっと無理ですね。本質的には退屈な作品なので。

 

悪い酒を飲み過ぎた後、吐くと少し気分が良くなる物ですが、正直今そんな気持ちです。最後まで読んだ方、私の吐瀉物を見せつけて申し訳ない。ではさらば。

マージェリー・アリンガム『検屍官の領分』(1945)

論創海外ミステリ、2005年刊
原題: Coroner’s Pidgin
 
 第二次世界大戦末期(1944年前後?)が舞台。大陸での数年間の秘密任務から解放され久々に英国の土を踏んだキャンピオンがロンドンのフラットでのんびり風呂に入っていると、従僕にして友人のラッグが、カラドス夫人とともに女性の死体をかついでやってきた。邸宅に侵入して自殺した女の死体をしばらく隠したいと説明する夫人に不審を抱きつつも、予定通り休暇に入りたいキャンピオンは敢えてこの事態を看過する。ところが彼は駅に向かうタクシーの中で不可解な誘拐に遭い、結果的に事件に巻き込まれてしまう。
 
 本作は『反逆者の財布』(1941、原題: Traitor’s Purse)以来4年ぶりとなる長編である(『反逆者の財布』は創元推理文庫で1962年に刊行されたが、現在は入手困難)。『財布』のラストで秘密任務に旅立ったキャンピオンが数年ぶりにロンドンに帰って来たところから物語は始まる。「キャンピオンやオーツが記憶を失う」という前作の衝撃的な展開は、本作の中でも印象的に語られている。
 
 検屍官の領分』の構造は単純なようで複雑だ。キャンピオンが取り組むべき謎は二つ提示される。一つは「自殺した女」モペット・ルイスの死の謎、もう一つはここ数年ロンドンで起きている、空襲から疎開させた荷物(特に美術品)の組織的な盗難事件である。両者は複雑に絡み合い、最終的にその責任の所在はある一人の「犯人」へと収斂されることになる。
 ところが、キャンピオンはこれらの謎を解き明かすための「捜査活動」、たとえば聞き込みなどを積極的に行わない。なぜならキャンピオンは警察官でも私立探偵でもないからだ。観察力・推理力といった、それらの職業に必要な能力は十分以上に持ち合わせているが、あくまでも一介の私人、今回の場合はカラドス家の友人として事件に行き合わせることになる。結果的に「巻き込まれ型の素人探偵」と呼ぶほかないその立ち位置は、キャンピオンの不思議な存在感の薄さとも相俟ってミステリ史上においても独特の存在となっている。
 本作におけるキャンピオンの行動の一例をあげれば、それらを行う十分に有能な刑事に同行する、あるいは刑事たちの入り込めない「家族の団欒の場」に居合わせ、そこでの会話に耳を傾けるといった程度だ。彼はあくまでも「無色の傍観者」である。その点で、ドロシー・L・セイヤーズの描くピーター・ウィムジイ卿とはかなり立ち位置が違う。彼は常々違和感を漏らしつつ、すべてのピースがピタリとはまる全体像を探し求めていく。残念ながらサスペンスの濃淡の盛り方にやや難があり、結末も鮮やかな解決と言いかねるので、不満を持つ人もいるかもしれない。
 
 さて、警察の捜査は、「大戦の英雄」ジョニー・カラドスへと絞り込まれて行く。ジョニーの存在は本作の要である。「ぼくは二つの世界に住んでるんだ」と語る彼の内面はほとんど描かれないが、その根源にあるのは「戸惑い」ではないかと思う。戦争を機に失われてしまった「美しい理想」。それはエドワード朝風の「上流階級意識」であり、「伝統」であった。戦前までは「理想の世界」の住人でいられたジョニーは、いまや現実との間で真っ二つに引き裂かれた。この「理想と現実の乖離」こそが本作のテーマだ(それを、ゲーム性と虚構性に支えられた「ミステリ黄金時代」の終焉へと敷衍するのは牽強付会だろうか?)。さらに言うならば、作中人物たちがジョニーを「未だ理想の世界の住人である」かのように扱う/あるいはそう思っているかのように見せかけるという点もまた、この作品のトリッキーさを際立たせている。
 ところで、第一次世界大戦で失われず、第二次世界大戦で失われた(と人々が捉えた理想的な)ものとはなんだったのか……「芸術や美酒」(それは伝統であり、理想的な世界に無くてはならないもの)を守るためにあえて犯罪に身を染めた真犯人、あるいは戦争という「現実」に向かい合うため(あるいはそれは理想が失われたことからの逃避ではなかったか)に終盤再び戦場へと旅立つジョニー。アリンガムの鋭い筆先はこういった世界への向き合い方を「ありうるもの」として読者に認識させる。キャンピオンが結末で妻と子が待つ田舎(『甘美なる危険』(1933)のあの水車小屋の近くのコテージだ)へと向かい、飛行場を見張る歩哨に呼び止められるのは示唆的である。それはキャンピオンにとっての「理想と現実」の境目だったのかもしれない。
 本書の米版が出たのは1945年3月ということだが、おそらく英版はそれに先立って出ていたと思われる。つまりアリンガムがこの本を書いていたのはそれ以前のはずだが、「目下の重要な問題は、戦争ではない」「もっと大きな危害を社会に及ぼす、たちの悪い犯罪がほかにある。裏切りだ。(中略)ある一つの世界でうまく立ち回っているかと思うと、また別の世界でも幅を利かせている。真に重要なものが何か分かっていないんだ」というオーツの発言は異様なリアリティで響く。カーが、あるいはクリスティがこの時期に何を書いていたか、そこで何を描いていたかを考えるとアリンガムの「現実」を見る眼の確かさに身が震える。
 
検屍官の領分 (論創海外ミステリ)

検屍官の領分 (論創海外ミステリ)

 

掘削深度1:アントニイ・プライス『隠された栄光』(1974)

前記事がTwitterでなぜかバズってしまったので、仕方なしに連載を開始することにする。バズったおかげでジャンジャン(?)情報が集まってきているのはありがたいことだが。

deep-place.hatenablog.com

さて第一回の課題本として選んだのは、アントニイ・プライス『隠された栄光』だ。原著は1974年刊、翻訳は1977年刊。CWAのゴールドダガー賞を受賞した話題作だけあって、翻訳の対応もなかなか早い。

この本を読むことにしたのは、月曜日に神保町に行ったら均一棚で買えてしまったからだ。とはいえ、以前から興味を持っていた本でもあった。一つ、私が過去数年間と少なからぬ印刷費用を費やして出した「アントニイ・バークリー書評集」で、同作者の処女作『迷宮のチェスゲーム』(扶桑社ミステリー)が絶賛されていたこと。二つ、この本がCWA50周年を記念して選ばれた「ダガー・オブ・ダガーズ」(ベスト・オブ・ゴールドダガー賞)の最終候補に入ったこと(なお受賞はジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』)。バークリーお墨付きの作家の、しかも『偽のデュー警部』『骨と沈黙』『運命の倒置法』と並び立つ作品がつまらない訳がない。つまらなかったら詐欺だ。

そんなハードル上がりまくりの本書は、第一次世界大戦(特に西部戦線、ソンムが中心)の公式戦史他、多数の資料をパッチワークして作り上げた「過去」と、「知るべきでないこと」を知ってしまった若き歴史学者ポール・ミッチェル(ただし本人に自覚なし)が、謎の組織に追われることになる「現在」とが絡み合う物語である。「組織」は知る者を消すことに躊躇がなく、既にポールの恩師であるエマソン教授を含む、三人の人物が殺されている。序盤はイギリスが舞台だが、あることをきっかけにポールは「秘密」が隠された古戦場へと旅立つことになる。真実に辿り着き、教授の仇を討つために。

第一次世界大戦の史実に留まらないずば抜けた記憶力と諜報員顔負けの行動力で「秘密」の核心へと迫って行くポールの冒険は、結末であっと驚く展開を迎え……その後どうなるかは言わぬが花。どうしても重苦しくなってしまう戦争にまつわる歴史的事実を冒険小説をミックスして軽妙に読ませる、それなりに面白い作品である(が、やはり上の傑作群と比べると見劣りがする)。10段階だと6点といったところか。

ところで、やる気はあっても所詮素人でしかなく手段に乏しいポールを手助けしてくれるのが、学者然とした(実際、かつてオックスフォードで歴史を学んだという)上級諜報員デイヴィッド・オードリーとその部下であるバトラー大佐だ。読み終わった後で知ったのだが、実はこの作品はオードリーを主人公とするシリーズの第5作である。読んでいる間中、「オードリーは何考えてるかわからないのに協力的すぎて怪しい。最後には裏切られそうだ」と疑ってしまったが、どうやらこのシリーズの初期作品は毎回オードリー以外の人物を中心に据えていて毎回妙な行動をするらしい。この怪しいおじさんのことがもっと知りたくなったので、私は『迷宮のチェスゲーム』をそのうちに読もうと考えている。

 

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というわけで、微妙に消化不良に終わってしまった。文庫化されないのもやんぬるかな。代わりに、文庫で読める第一次世界大戦面白エンタメを何冊か紹介するので、こちらはぜひ手にとってみて欲しい。

長い日曜日 (創元推理文庫)

長い日曜日 (創元推理文庫)

 

オドレイ・トトゥが出演したことでも知られる同題映画の原作。映画も素晴らしいが、原作も非常に面白い。塹壕戦で恋人を亡くした車椅子の女性が、彼の生存の噂を聞きつけ調査に乗り出す。彼女は遠出できないので、フランス各地から集まってくる手紙を読みながら推理することになる。つまり安楽椅子探偵ものですね。パズルのピースが一つ一つはまって行く快感を彼女とともに味わえる、ジャプリゾ晩年の傑作。

 

幻の森―ダルジール警視シリーズ (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

幻の森―ダルジール警視シリーズ (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 

巨漢のダルジール警視とスマートなパスコー主任警部が活躍するシリーズ。上で挙がっていた『骨と沈黙』よりも後の作品である。第一次世界大戦に従軍したパスコーのお祖父さんの謎と、現在ヨークシャーで起こっている事件がなぜか複雑に絡み合って行き、そしてラストで鮮やかに解き明かされる。シリーズ中での人気度では『ほねちん』や『完璧な絵画』に劣るが、個人的には非常に好きな作品。

 

天国でまた会おう(上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

天国でまた会おう(上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

最近の作品ではこれ。偶奇が結ぶ極上のロマン。ミステリじゃないだろうって? それはそうだが読んでくれ。絶対に損はさせない。

 

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さて、次の更新は未定だ。読む本は同時に手に入れたデイヴィッド・ボーマン『ぼくがミステリを書くまえ』になるかもしれない。が、ペースは特に定めていないので、気長にお待ちいただければありがたい。

 

隠された栄光 (1977年) (Hayakawa novels)

隠された栄光 (1977年) (Hayakawa novels)

 

ハヤカワノヴェルズ未文庫化作品を掘削する①(準備編)

前からボチボチ作っていた「ハヤカワノヴェルズ」全リストが完成した。と言っても、「翻訳作品集成」のページの抜け情報をwikipedia他で補填しただけで、実際の本に全て当たったとかそこまで気合の入ったものではない。完全に自分用リストである。

それによると、「ハヤカワノヴェルズ」のシリーズ名が入った本はおおまかに1028冊、そのうち何らかの形で文庫化されているのは503冊あることが分かった。つまり約半数が文庫化されることなく書店から姿を消したことになる。まあ、文庫化されていても今は読めない本が山ほどあるのだが。

この約500冊の中には映画のノヴェライズや原作が多数含まれている。また、当時英米で流行ったらしい本も多い(割合は低いがフランス作家のものもかなりみられる)。向こうではその後も何冊も本を出したけど日本では一、二冊止まりだった作家、また本当に一発屋で終わった作家も少なくない。

今では想像することしかできないが、こういった翻訳娯楽単行本が月に三冊も四冊も出ていた時代があった。そのほとんどが時代に取り残されて風化していったのだが、もしかしたら残された貝塚にキラリと輝くものが残ってはいやしないか。誰か当時から読んでいた人が「これは今でも鑑賞に堪える隠れ良作ですよ」と教えてくれやしないか……ともう五年ほど待っていたが、ポツポツ漏れ聞こえるのはあっても塊では出てこない(当然)。

じゃあ、ちょっと自分で読んでみようかと当面の目標として作ったリストが以下だ。☆は確度の高い情報があり期待できる本だが、あとは英語のwikipediaでの紹介が面白そうだったとか、タイトルがかっこいいとかそんな適当な理由で選んだ。読んだ結果については、このブログで報告するかもしれない。飽きなければ。あ、もしこの記事を読んだ人の中で「このリストのこれは面白いで!」や「この本も読んだ方がいいで!」のような知見をお持ちの方がいらっしゃれば、ばんばんコメントしてほしい。

ということで、しばらく新企画に潜る。いや、同人誌を作る計画が既にあって、そっちが手一杯のはずなんだけど。大丈夫かいな。

 

シェパード・ミード 『努力して産業スパイに成功する法』 1969
モーリス・キュリー 『渚の果てにこの愛を』 1971
ロバート・クレイン 『老女のたのしみ』 1971
バリイ・イングランド脱走の谷』 1975
アントニイ・プライス 『隠された栄光』 1977☆
ダグラス・フェアベイン 『銃撃!』 1977☆
ウィリアム・ゴールドマンマジック』 1979☆
ソル・スタイン 『法廷の魔術師』 1979
ハリー・クレッシング 『今夜ロズのパーティにでかけるの?』 1979
ピーター・ベンチリーアイランド』 1979
ヒュー・フリートウッド 『ローマの白い午後』 1979☆
ポール・ギャリコズー・ギャング』 1979☆
ジョン・グレゴリー・ダン 『エンジェルズ・シティ』 1980
レナード・ワイズ 『ギャンブラー』 1981☆
J・D・リード 『孤独なスカイジャッカー』 1982
アーサー・ミラー野生馬狩り』 1982
ジョゼフ・ウォンボー 『ハリウッドの殺人1984
ダーク・ウィッテンボーン 『赤いカウボーイ・ブーツ1984
ブライアン・ガーフィールド反撃1984
パット・コンロイ 『潮流の王者』 1988☆
アラン・セイパースタイン 『ロリータは何歳だったか』 1989
マイク・フィリップス 『血の権利』 1990
ジョン・エド・ブラッドリィ 『失われた天使の夜』 1991
チャールズ・バクスター安全ネットを突き抜けて』 1992
ピーター・マシーセン 『ワトソン氏を殺す』 1992
フィリップ・リドリー 『恍惚のフラミンゴ』 1993
アラン・ホリングハースト 『スイミングプール・ライブラリー』 1994
デイヴィッド・ボーマン 『ぼくがミステリを書くまえ』 1996
チャールズ・ダンブロジオ 『』 1998
イアン・マキューアンセメント・ガーデン』 2000☆

【未訳作品紹介】アンドリュー・ウィルソン A Talent for Murder (2017)

 アガサ・クリスティーの名を知らないミステリファンは恐らくいないだろうし、仮にミステリファンでなかったとしてもそして誰もいなくなったアクロイド殺しといった作品に何らかの形で触れたことのある人は多いと思われる。(最近日本人キャストで映画化・ドラマ化されたしね)

 そんなアガサ・クリスティーの人生には未だ解き明かされていない謎がある。1926年12月3日、その年アクロイド殺しを刊行して大絶賛と、そして同じくらいの批判を浴びた彼女が突如失踪。彼女の生死の状況は不明のまま、事態は国中を巻き込む大騒動となり、自殺・事故・殺人・誘拐・あるいはただの家出、と議論が百出した。11日後、彼女は北イングランドのヨークシャーで鉱泉ホテルに泊っているところを発見されたが、なんと失踪中の記憶を失っていた。

 最愛の母親の死、自著に押し寄せた数々の批難、夫の不倫発覚。ごく短い期間に次々に訪れた試練に押し潰されてしまったというのが衆目の一致するところだが、クリスティーが自伝でこの「失踪事件」を黙殺したこともあり、「何か秘密があるのでは」と逆に多くの作家・研究者の興味を掻き立ててきた。この「事件」については多くの小説・評論が書かれてきたが、つい昨年、一石を投じる作品が出版された。それが今回紹介するアンドリュー・ウィルソンA Talent for Murder である。

 ちなみにアンドリュー・ウィルソンは、パトリシア・ハイスミスの伝記 Beautiful Shadow (2003) でエドガー賞の評論・評伝賞を受賞し(河出書房新社さん、翻訳頼みます!)、自分でもハイスミス風の小説『嘘をつく舌』(2007)を書いてしまったジャーナリスト。粘り強い取材で優れた伝記・評伝を書くことに定評のある作家で、 A Talent for Murder は小説第二作に当たる。

A Talent for Murder (English Edition)

A Talent for Murder (English Edition)

 

 

 長々とした前置きになったが、そろそろ本編の紹介に入ろう。1ページに出てくるのが「編者のノート」である。本書の編者で登場人物の一人であるジョン・ダヴィソンが成り立ちを説明するという内容だが、実際この時点で本書の胡散臭さはメーターを振り切ってしまう。枠物語の形式を用いて、現実と虚構の狭間に霧をかけていく作者の手法は、ありきたりとも言えるがそれだけに効力を発揮している。

 さて第一章だ。1926年12月1日、ロンドンで地下鉄を待っていたアガサは、誰かに突き飛ばされて線路に落ちかける。危ういところで彼女を救ったのはクルスという若い医者だった。彼女のファンだというその男は最新作アクロイド殺しを褒め称え、その素晴らしさは作者自身が「殺人者の天性」を持ち合わせている故だと語る。そして畳みかけるように、夫のクリスティー中佐の不倫を世間に暴露されたくなければ、あることをしてほしいと脅迫する。金が欲しいのかと尋ねるアガサにクルスはこう答える。

「いささか不躾に感じるかもしれませんが、きっと貴女も興味を持って下さるはずだと信じています」

「貴方は一体何の話をしているのかしら?」

「クリスティー夫人、貴女には殺人をしていただきます。そうそう、その前に一旦失踪していただくことにしましょうか」 (第一章)

 そんなことはできるはずもないと怯えるアガサだったが、クルスはもし断るならば夫の不倫の暴露に加えて彼女の娘ロザリンドがどうなるか分からないぞ、と圧力をかけてくる。やむなくクルスの脅迫を受け入れたアガサは、誰にも何も告げないまま12月3日の深夜に「失踪」を遂げるのだった。以降、クルスの指示でヨークシャーのホテルに待機するアガサの視点を軸にして、警察の捜査(クリスティー中佐を殺人者と疑うケンワード警視が中心)とジャーナリスト志望の素人探偵ユナ・クロウの無茶苦茶体当たり調査が絡まり合いながら物語が進んでいく。

 クルスは作家志望でもありアガサを強く私淑しているが、同時に彼女を「自分が紡いだ物語の登場人物」として扱い、完全犯罪を成し遂げさせようとする。それに対してアガサは何とか「クルスが既に書いた物語」から脱出して一発逆転を仕掛けようとする。さらにここにもう一人重要な人物の意図が絡み、物語のボルテージが一気に高まっていく。

 断片的な歴史的事実とサスペンスフルな虚構とを巧みに組み合わせた本作はそこそこ長め(PBで350ページ程度)だが、私程度の読解力でもこの三日で280ページ近く読めたことも示す通り非常にリーダビリティが高く、英語も難しくない。終盤の展開にはもちろんワクワクさせられたが、巻末に付された「好事家のためのノート」で明らかになる衝撃的な事実を前にしてはもはや何も言えない。「編者のノート」のあれはそういうことだったのかと膝を打つこと間違いなし。アンドリュー・ウィルソン、恐ろしい作家……必読の傑作です。翻訳されたら是非読んでください。

 

追記:本書の続編が既に書かれている。その A Different Kind of Evil (2018) は、「失踪事件後、『青列車の秘密』を書きあげたクリスティーが気晴らしのためにカナリア諸島に向かう船旅を舞台にした作品」で、「クリスティー自身による作品を思わせる企みに満ちたプロットが素晴らしい」「本年度でも屈指の謎解きミステリの逸品」との評価を受けている。読んだら感想を書きます。

A Different Kind of Evil (Agatha Christie 2)

A Different Kind of Evil (Agatha Christie 2)

 

 

参考:今回のテーマに関係する本を何冊か上げておきます。

アガサ 愛の失踪事件 (文春文庫)

アガサ 愛の失踪事件 (文春文庫)

 

 映画化もされた小説。ウィルソンの本を読んだ後、さらっと通読したが流石に格が違いすぎた。夏樹静子の訳は前半はやや硬いがページが進むとこなれてくる。

なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?―七十年後に明かされた真実

なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?―七十年後に明かされた真実

 

 真面目な評伝。俗説を排して事実に基づいた調査を心がけている。アンドリュー・ウィルソンも本書を参考にした旨を謝辞に述べている。

嘘をつく舌 (ランダムハウス講談社文庫)

嘘をつく舌 (ランダムハウス講談社文庫)

 

 ウィルソンの小説第一作。ヴェネツィアを舞台に老作家の過去を探る若者……というハイスミス的な雰囲気と、自分とハイスミスの(実際に会ったことはないそうですが)関係をなぞったような内容がうまくかみ合った良作。今からでも読む価値あり。

皆川博子未収録短編読書まとめ③

ということで二つ戻って今回は第三回となります。実質第四回ですが。そしていつの間にやら皆川博子の辺境薔薇館』の発売日はもう明日に迫っております。早く読みたいような、この集中連載が終わるまでは待って欲しいような……

 

11.「ガラス玉遊戯」……「別冊婦人公論」1983年7月号

ビー玉を川に一つ、二つ、落とすとポツリポツリと沈んでいく……そんなひどく静かで不気味な風景を通奏低音に描かれるのは、ピンク映画の監督との不倫に、所在なげに溺れていく主婦の姿。人間は恐ろしく簡単に死んでしまう存在だが、死に極限まで近付くと、体の中にあった筈のものがなくなってしまうようだった……夢と現の間と往還する虚無的な物語の中でただ一つ、ビー玉の入った袋を川に叩きつけバシャリと大きな音を立てた「大いなる終わり」の存在が印象深いです。

 

12.「サマー・キャンプ」……「小説宝石」1983年8月号

女子キリスト教協会JCCの主催するサマー・キャンプに指導役として参加した天沢奈津子は、突然燃え上がった身の内の炎に喜びと恐れを同時に抱いていた。同棲相手との間にできた子供が死産し、帝王切開して以来、男との付き合いはひどく索莫としたものでしかなかったのに。子宮の中で、私の身の内に響く鼓動を、脈流を、轟音を聞いた者は後にも先にもあの子供ただ一人、今は小さな耳の骨だけが残って……作品としての出来はさほどではありませんが、小さな小さなモチーフが妙に印象に残ります。

 

13.「アニマル・パーティ」……「小説宝石」1983年11月号

「金になる写真を撮りたければ、あの子を撮るんだね」というバーのママの言葉に導かれるまま、リサの家を訪れた藍野とマキは、彼女とペットのコリー犬との異様なじゃれ合いを目にして衝撃を受ける。時を同じくして彼らが出会った新進のシナリオライター村上圭子の虚無的な眼差しを、マキは自然とリサに結びつけていた……死にも漸近するアモラルな性のあり方を描いても巧い皆川博子ですが、この作品は正直今一つ。さらにもう一歩踏み込んだ作品ということで、「黒と白の遺書」皆川博子コレクション3所収)を強く推奨する次第。

 

14.「夜明け」……「月刊カドカワ1984年12月号

皆川博子がクリスマスストーリー!?という意外性はあるが、冒頭から世阿弥を引用する辺り、今様の作品でも手加減は一切なし。別居している夫が娘を連れ去りクリスマスの街に消えた。それを追いながら気もそぞろな「わたし」の前に現れた初老の男は、私に不思議な言葉を投げかける。「爪嘴が伸びただろう」……どこまでが現実でどこからが虚構なのか、みるみる分からなくなる不思議なショートストーリー。

 

15.「CFの女」……「別冊小説宝石」1985年9月号

新幹線に乗って北へ向かっていた主人公の前に現れたのは、もう十何年も前にバリ島で出会い、ひと夏のアヴァンチュールとしけこんだ女性、のようだった。いまでは旅行評論家として名を知られ、ちょっとしたコマーシャル・フィルムにも出演している彼女だが、どうやら自分のことは忘れてしまったらしい。

ここに来て意外にも(失礼!)ミステリ短編が飛び出してきました。自分の過去を断片的に語る主人公が、あることをきっかけに謎が解いた瞬間浮かび上がる思考のベクトルこそミステリ。まさかこんな作品が読めるとは、未収録短編集めも悪くありませんね。

皆川博子未収録短編読書まとめ⑤

はい。⑤です。③と④でやるはずだったコピー用紙の束を職場のロッカーに突っ込んだまま忘れてきたので、⑤でやるはずだった短編を先に紹介します。都合により六篇。一篇ごとの分量もやや少なめに。

 

21.「赤い砂漠」……「毎日新聞 夕刊」1987年8月20日

もしあの時ナイフを持っていなかったら……そんな感情に突然襲われたメイク係の「私」が見守るのは映画撮影。「夏休み映画大会」を訪れる人々の様子を収録する傍ら、私は子供の頃好きだった祖母のことを、そして祖母をいじめ殺した実の母のことを急激に思い出す。そう、あの時も野外映画場のスクリーンの裏側に隠れて、左右が逆になった世界を見つめていたっけ。確かめてはいけない、でも確かめずにはいられない。裏返しの世界に待つ者は……

②で紹介した「赤姫」に続く、新聞掲載作品です。これをいきなり読まされた読者はあっけにとられた事でしょうね。皆川博子お得意のアレがまたしても炸裂し、幻妖な世界に引っ張り込まれてしまいます。

 

22.「亀裂」……「小説WOO」1987年9月号

劇団「海賊船」を四人で結成したのはもう何年前のことか。男女二人ずつだったメンバーは現在はそれぞれ結婚して二組の夫婦となり、もはや演劇とは無関係な人生を送っていた。主人公の夏子の夫、喬は今能面を彫るのを趣味にしている。入念に彫り進め、何度も何度も漆や胡粉を塗り重ね、そして完成の暁には無慈悲に叩き割る。その度、夏子の胸元に小さな鱗が一枚生えてくるのだ……夢と現の境界線に入り始めた、いや最初からあったのかもしれない「亀裂」を描く力作です。

 

23.「紡ぎ歌」……「小説現代」1987年9月号

本編は、近所で暮らしている親戚同士の家を繋ぐ電話の会話によってそのほとんどが構成された物語です。視点人物の麻子は血の繋がらない叔母知子の家に電話をかけ、毒を一滴ずつ滴らせるように、悪意を持って思い出話を綴っていきます。果たして電話の相手は従姉妹の牧子か、あるいは電話を代わったふりをした知子なのか……胴体はゴマ粒ほどの大きさの蜘蛛が麻子の繰るページを駆け抜け、文字を紡いでいく描写が戦慄を誘う不気味な作品。

 

24.「雪笛」……「ミセス」1988年1月号

25.「月光」……「ミセス」1988年2月号

26.「花影」……「ミセス」1988年3月号

「ミセス」は言わずと知れた伝統ある女性誌ですが、当時は現在よりも対象年齢層が若く、30代の既婚女性だったようです(現在は40代~50代、らしいよ)。この三連作は(言わずと知れた)「雪月花」をテーマに、大きくイラストを刷り込んで展開された作品で、正直再録は難しいと思います(かなりイメージが変わる)。

謎の洋館を訪れた女性が「殺された」と自称する少女と出会い、夢幻の世界に誘われる「雪笛」、西條八十トミノの地獄」の最後の二行(作中引用される本では塗りつぶされて読めない)に秘められた深い感情を三姉妹の生霊が召喚する「月光」、そして、主人公が少年時代に疎開のため訪れた田舎町で出会った美しい少女と今を盛りと花開く桃の林の幻想的な描写が図抜けた「花影」。いずれもごく短い作品ですが、ムードがあって大変面白いです。

皆川博子未収録短編読書まとめ②

昨日に引き続き、今日も皆川博子の未収録短編を読んでいきます。『辺境薔薇館』発売日には間に合わないにしても、それほど長引かせず終わらせたいショート企画ですが如何に……

 

6.冬虫夏草……「婦人公論」1979年12月増刊号

疎開先での縁から病院を退院した志麻子と一緒に暮らし始めた悠子でしたが、何かに寄りかからずには生きて行かれない彼女に辟易しつつも突き放すことができないでいました。男を気軽に連れ込んでは子供を産みたがり、悠子を困らせる志麻子。そんな彼女が、捨てられていた赤子を拾ってきてしまったことから大きく事態は動き始めます。

冬虫夏草と言えば蛾の幼虫に寄生するキノコの一種ですが、本作に登場する志麻子もまた悠子に寄生して生きている存在であると言えます。ところが二人の関係は寄生から共依存、そしてさらに歪んだ関係へと変化していくのでした。少し長めで読みごたえのある作品ですが、読んでいる途中はもう辛くて「早く終わってくれ」と思わずにいられなかった。凄絶な読み味の良作。

 

7.「沼」……「別冊小説宝石」1980年5月号

私には生まれなかった双子の弟がいる。それにしても弟はどこに行ったのだろう。母の子宮の中で消えてしまったのだろうか。あるいは……母の葬儀の帰り、喪服姿で居心地は悪かったもののふと入った喫茶店で出会った同年輩の男。もしかしてあれは私の弟なのかもしれない……

「沼」とは弟を魚に、そして母親をその住処に例えた「私」なりの言葉ですが、「私」と不仲な「母」の間に存在した確執と歪んだ愛の形をも呑みこんだ、深い表現であると思います。真夏の怪談めいた物語はある実に不愉快な一点に集約されるのですが、あるいはそれは私が男であるからこそ不愉快に見えるのかもしれません。

 

8.「致死量の夢」……「別冊婦人公論」1980年7月号

最近落ちていく夢を頻繁に見るようだ。それは夢というよりも、ふと身体の中に沸き起こる感覚のようなものかもしれない。街を歩いていて急にそんな気分になるのだから。振り向けばあるいは自分を突き落とした犯人が分かるかもしれない。だが、そんな事は怖くてできない。ただ、落ちていくしかないのだ。

集合住宅の中で囁かれる噂を媒介に紡がれていく物語は、究極的にある一室に集約されていきます。語り手の迪子が出会ってしまった「運命の女」はある一つの愛のために生き、今は死にながら生きている存在でした。現実との間に付けた折り合いを互いに引きちぎりあい、ともに墜ちていく女たち。枚数は少ないですが、恐ろしい作品です。

 

9.「雪の下の殺意」……「小説宝石」1981年5月号

天井からぶら下げた生肉がテラテラと光り、そして腐り落ちていくのをただ静かに見守る友江は既に壊れてしまっていた。果たして七年前に雪祭りの街で何があったのか。薄皮を一枚一枚剥ぐように少しずつ明らかにされていく、雪とは対比的にどこか生温かな真実は、まるで腐りかけた生肉のようで不快で吐き気を催すものなのですが、いつしか読者も友江と一緒に呆けたようにそれを見守るだけになるでしょう。

 

10.「赤姫」……「信濃毎日新聞」1981年11月21日号

地方新聞に掲載された、ごく短い作品です。芝居小屋にやってきたドサ回りの劇団の若い稼ぎ頭、珊瑚が浴場で手首を切って死んでいるところが発見されます。警察の捜査では自殺と目されますが、芝居小屋経営者の娘である語り手はそれを信じようとはせず……おや、と思った方は勘が鋭い。どうやらこの作品、皆川博子推理小説協会賞受賞作『壁-旅芝居殺人事件』(1984)と同じ土壌に芽吹いた作品のようなのです。結末はまた少し違い、そしてもう一枚どんでん返しを仕込んでやや軽い味わいになっているのですが……もしかするとこういった事情で未収録になっているのかもしれませんね。でもちょっと面白い。

皆川博子未収録短編読書まとめ①

来週の金曜日5月25日に皆川博子先生の100作目の単著、皆川博子の辺境薔薇館』河出書房新社)が刊行されるとの由。インタビューや未収録短編、また作家、評論家ら数多くの皆川博子ファンのエッセイが寄稿されるとのことです。

 

それに合わせて、皆川博子の残念ながらいまだ数多い未収録短編を一挙に読んでみようと思います。現行入手容易な(国会図書館でコピーできる)50編の情報については、以下のサイトも合わせてご覧ください。

皆川博子 単行本未収録作品書誌(参考編)」 by 戸田和光

http://www7b.biglobe.ne.jp/~tdk_tdk/minagawa.html

 

1. 「夜のアポロン……「サンジャック」1976年4月号

ごく最近存在が確認された作品です。皆川博子とヌードやセックス、車の話題がメインの男性誌というミスマッチに加え、「矢沢永吉の写真と女性作家の小説をタイアップする」という企画(しかも続かなかった)の不整合ぶりには相当の違和感がありますが、しかしそれでもなお非常に皆川博子らしい作品に仕上がっています。

場末のサーカスで、球状に組み立てられた檻の中を、時に重力に逆らいながら猛スピードで駆けまわる芸を披露する徹は、仲間たちから「アポロン」と呼ばれるようになっていた。彼に恋するショーダンサーのマユミは千秋楽の今日、タンデムでこの芸に挑む。夜八時三十分、舞台はライトアップされ、太陽神が降臨する……

スピードライダーを憧れながらも、金のない者にその道は開かれないことを知り閉塞感に苛まれている青年と、彼に恋し彼のためなら何でもしてやりたいと望む少女の行き場のない様子が球状の檻に仮託されています。彼らの胸のうちに燻る情熱が、最後の瞬間に究極的に燃え上がる、未収録なのが惜しまれる強烈な作品です。

なお、発表は『水底の祭り』『薔薇の血を流して』収録作と同時期になります。もう少し早ければ『トマト・ゲーム』に入っていたかもしれませんね。

 

2.スペシャル・メニュー」……「小説現代」1977年4月号

人口が一億人から七千人前後まで減少してしまった未来の日本を舞台に描かれる、いささかブラックなショートショート。「たとえ人口が減ろうとも文明レベルを下げるわけにはいかない」というお題目の元、エレベーターガールがレストランの受付係、そして女給へと全力疾走しながらサービスしていくという冒頭が既に面白い。「47歳だから全力疾走はキツイ」と訴えるのも妙にリアルです。

噂だけで語られる究極の美食、それはこの手の作品にはありがちなものなのですが、「人類が滅びへと導かれている理由」が明かされる結末を踏まえると、その精神の歪みに辟易させられてしまいます。こういう作品も書くのか、というのが正直な感想。

 

3.「夜、囚われて……」……「Delica」1977年7月号

コーヒーショップに務める青年と四十がらみの幻想小説家「モカさん」(モカばかり頼んで、ずっと文庫本を読んでいる)の歪んだ関係を描いた作品です。「モカさん」を殺そうとナイフを掴み飛びかかった、その拍子に真っ暗な窓から転落する……そんな夢を見た青年が目を覚ますと、そこは「モカさん」の家のベッドだった。性交渉を持った訳ではない。しかし、なし崩しに深まっていく関係の中で青年が選んだ真実の恋は……

これまた新発見短編。Delicaは女性向けの情報誌ですが、この時期ミステリ作家(小泉喜美子など)を起用して色々書かせています。国会図書館で借り出してペラペラめくりましたが、個人的には(ミステリとは関係ないですが)海野弘のデザイン論が面白かったですね。

さて、皆川博子は後年あまりにも頻繁にこの手を使っているのですが(具体的には書けない)、類似の作例としては最も早い時期の作品です。非現実的な話ではありますが、「幻想小説家」であるがゆえに「あり」という気分になってしまう不気味な作品です。

 

4.「夜のリフレーン」……「小説推理」1978年7月号

「小説推理」誌上で連載された『絵の贈り物』というアンソロジー企画の一編。吉行淳之介中田耕治藤沢周平皆川博子眉村卓田村隆一、藤原審雨、池波正太郎中山あい子多岐川恭都筑道夫戸川昌子田中小実昌佐藤愛子森村誠一谷恒生樹下太郎山田正紀河野典生赤江瀑藤本義一と、人気作家から当時の新進作家まで勢ぞろいしたこの企画は、福田隆義が描き下ろしたイラストに作家が小文を添えるという内容で、のちに単行本化されています。

皆川博子に割り当てられたのは、細身の黒人ボクサーがノックアウトされているイラスト。「姉さん」に語りかけるある女性の独言を辿った先で緩やかに恐怖が立ち上がる構成でなかなか上手い。後年『ジャムの真昼』や『絵小説』でやったことの原点を示す、作家歴の中でも重要な作品です。

(5/22追記:瀬名秀明編『送る物語Wonder』や、『冒険の森へ 傑作小説大全3』などにも再録されています)

 

5.「兎狩り」……「別冊小説宝石」1979年5月号

「兎狩りをしよう」と彼が吉本に提案したのはある冬の日のことだった。彼と吉本の関係は高校時代にまで遡る。大柄で柔道や空手をやっていて、それでいて芸術や映画、洋楽にも詳しい吉本は、一見陽気で快活なようで、その性根は残酷で臆病だった。ある日学校の水の入っていないプールで男子生徒の死体が発見される。事故ということで一旦は片付いた事件だったが、彼だけは吉本が犯人なのではと疑っていた。

吉本という、一言では言い表し難い複雑で多面的な心性を持つ男を巧みに描いた作品ですが、そこに名無しの「彼」の視線を挟み込むことでさらに描写を揺らがせています。現状への不満を暴発させる吉本の大きな体とそれを操る小柄な「彼」の対比と捩じれが見事。さらに五年後の出来事を描く結部まで飽きさせずに読ませる良作です。

 

明日はもっと本数が増えるかも。よろしくお願いします。

サバービコン(2017)

 評論家の三橋曉氏オススメの映画「サバービコン」を観てきた。本日初日。

 1959年、大都市郊外の住宅地「サバービコン」が舞台。ロッジ夫妻の家の隣に黒人のマイヤーズ一家が引っ越してきたところから物語は始まる。いや実はもっと昔から始まっていたのかもしれないが……サバービコンの住人たちは黒人の受け入れに大反対。隣家と接する辺に塀を立てる、衆を揃えて朝から晩まで黒人は出て行けと大声で威嚇する、商店で物を売らない、ゴミを投げつける……陰湿で徹底的な嫌がらせが続く中、ロッジ家でも事態が動き始めていた。

 ある晩、ロッジ家に居直り強盗が侵入。ガードナーとローズ夫妻、息子のニッキー、そしてローズの双子の姉マーガレットは全員クロロホルムで眠らされてしまう。しかし翌朝、強盗に荒らされた家の中でローズだけは目を覚ますことがなかった。クロロホルムの過剰摂取による死。ローズとマーガレットの兄ミッチはニッキーに犯人への復讐を誓うが、捜査は遅々として進まない。ようやく訪れた面通しの機会にこっそり入り込んだニッキーは、思いもよらない衝撃の展開を目にしてしまう……

 

 「サバービア」が翻訳ミステリ評論界隈でキーワード的に扱われたのは2010年頃だったと記憶する。川出正樹/霜月蒼/杉江松恋米光一成四氏の座談会録「”この町の誰かが”翻訳ミステリ好きだと信じて」「サバービアとミステリ 郊外/都市/犯罪の文学」を読んで、おおと感嘆した人も少なくないと思う。いや、そんなん知らんよという人もまた、多数いらっしゃるとは思いますが。

 その中で大きく取り上げられた参考図書の一つが、大場正明『サバービアの憂欝』。1993年に東京書籍から出版されるも、残念ながら現在は絶版。古書価も定価よりやや高。ただし著者がWEBで全文を公開しているので、読むこと自体は問題なく可能です。「1950年代以降のアメリカを知る」上では基本となる本で、かつめちゃくちゃ読みやすいので、まだ読んだことのない人は暇な時に(いままさに暇だろ、GWなんだから)アクセスしてみてください。

http://c-cross.cside2.com/html/j0000000.htm

 で、この本を敢えて取り上げるのは、「サバービコン」理解に当たってこの本がものすごく有用だからである。というか著者の大場正明氏は「サバービコン」パンフレットにも一文寄せてます。ノワール・コメディと実話が暴く偽りの楽園」というこの文章もすごく面白いので、映画を観たらぜひパンフレットも買おう。

 とまれ、この本を読んでいると、例えばマイヤーズ一家のお父さんが芝生を刈っていたり、お母さんが郵便配達人から「グッドハウス・キーピング」誌の定期購読を受け取っていたりするのを見て「うわっ、まんまじゃん」となる。そのくらいしっかりとディテールが作り込まれている。とにかく「1959年っぽい」世界を作り出すためにジョージ・クルーニーがしっかりお金を掛け心を砕いているのが分かる訳。さらに、物質的な面に加えて精神的な面でも作り込みは入念だ。たとえば、マイヤーズ一家を追いだそうとする町内会議の場には当然男しかいないのだが、そこで頻繁に口にされるのが「サバービコンは発展し続ける」「黒人はその発展を妨げる」という笑止な言説。マニフェスト・デスティニー アメリカ(白)人最高や。お前ら完全に狂ってるぞwww

 チョイ太目のお父さん役(ガードナー)に扮したマット・デイモンが会社のデスクで周りに人がいない時はずーっと握力鍛えてるとか、ローズとマーガレットの二役で出演しているジュリアン・ムーアが静かに笑うサイコパスに成り果てていく(客に洗剤入りコーヒーを自然に出す)とか色々ぶっ飛んでいるのも面白いし、ものすごく演技達者な子役ノア・ジュープ(ニッキー)が終盤追いつめられて、まるでヒッチコックの映画みたいなカット割りになって行くのも良かった。とにかくディテールがものすごく丁寧に詰められていて、それが全体にしっかり奉仕していく。良作だと思います。

 最後に一番好きなシークエンスについて。でかい身体のマット・デイモンが夜の街に向かって小さな自転車を一生懸命漕ぎながら疾走するシーンがあるのですが(なぜそんなことになったかは書けない)、そこでカメラがスッと引いて夜空とぽつぽつ灯りが付いている街を映す。一か所やけに大きな灯りがあるのですが、それはマイヤーズ家の前で大騒ぎしている馬鹿者たちを表しています。さておき、物語の最初で紹介された街の清潔な様子とは打って変わって、闇に沈んだ街の禍々しい(そして逆に美しい)ことと言ったら……みっともないマットとの対比もばっちり。アメリカの文化に興味がある人は必ず観なければならない作品です。

 

サバービアの憂鬱―アメリカン・ファミリーの光と影

サバービアの憂鬱―アメリカン・ファミリーの光と影

 
彼女が家に帰るまで (集英社文庫)

彼女が家に帰るまで (集英社文庫)

 

↑若いアメリカ人ミステリ作家でも随一の実力者が描く、「50年代後半の」「サバービアに黒人がやってきた」物語。2016年の必読書、でした。

ザ・フィフティーズ1: 1950年代アメリカの光と影 (ちくま文庫)
 

↑『サバービアの憂欝』に続く参考書。長いけど面白い。