ダミアン・ラッド『世界でいちばん虚無な場所』(柏書房)
ここまで完璧に売り方を間違った本というのもあまりないと思う。
本書は、オーストラリア人の著者ダミアン・ラッドがインスタグラムにアップしている「@sadtopographies」というある種悪趣味な、しかし興味深い記事が元になっている。これは世界中に存在する憂鬱な気分になる地名(例えばカナダの悲哀諸島(The Sad Islands)や、ロシアの孤独島(Ensomheden)など。著者のバックグラウンドに合わせてか、オセアニアの地名も多い)をGoogle Mapの切り抜きとともに紹介するというもので、他には何の説明もない。恐ろしく素っ気ない記事群だ(が、なんと10万人以上のフォロワーが存在する)。
ダミアン・ラッドはこれらの記事を書籍化するに当たって、これらの地名についての様々なエピソードを書き連ねた。ただし、彼自身ほとんどの場所には行かないままに(少なくとも序文ではそのように書いている)。旅行書や地図、ブログやおそらくはウィキペディアなどの内容を巧みに組み合わせた、完全なる「安楽椅子旅行」の案内書である本書は、その地名が形成されるに至った歴史的経緯や事件について掘り下げていく中で、濃密な憂鬱さと、しかしそれでも匂いたつユーモア感覚に満ちたものとなった。著者の基本的なスタンスは「地名命名者はストーリーテラーである」というものだが、それを再話することで、彼は新たな物語を紡ぎ出した。
この記事群の間に、さらに三編のエッセイが書き下ろされている。地図の版権を守るために、二人の地図作成者によって書き加えられたが、数年後に本当に実在の地名となってしまったアグローという町の話。些細な事故により地中の石炭が今も燃え続けているため、誰も住めなくなった合衆国中部の町セントラリアの話。刑務所の中で十数年間にわたって架空の徒歩旅行を行い、克明な旅行記を付け続けたアルベルト・シュペーアの話。これらを読んでいくと、読者の中で本書の受け取り方が少しずつ変わっていく。地図には書かれている、歴史的経緯も存在する。だが、本当にこれらの地名は存在するのだろうか? 本書に混ぜ込まれた架空地名が「インスタグラムの記事投稿後、ないし本書の刊行以降に生まれたのではない」と誰に確信しうるだろう。かくして本書は、プリースト『夢幻諸島から』やカルヴィーノ『見えない都市』にも似た、「架空地名」のガイドブックとして読みうる素地を手に入れたのだ。
だが……日本語版を刊行するに当たり、編集部(と翻訳者)は何を考えたか、原書では意図的に取り除かれていたと思しい、緯度経度や現地を訪れる場合にかかる時間(東京発)、必要経費、ルート、現地の写真などをご親切にも追加してくれている。【原書にも「緯度経度」は記載されており、批判の一部は当たっていなかった(追記参照)。この点については関係者に陳謝したい。なお、以下の文面は一切否定しない。】 それはそれで、不思議なリアリティの揺らぎを補完してくれているともいえるが、邦題や帯のセンスのなさを見るに、本当に何もわかっていないのではなかろうか。「いざ、人類の闇へ。」ってなんだよ。まったくそういう本じゃないだろ。「世界で話題の旅インスタ」「# こんな「虚無場所」に行ってきます」っていう帯文句もまったくの嘘。話題性を高めるための仕掛けだと思うが、事実と異なる内容を載せるのはお寒い。
このように表面上はインスタに上げた写真をまとめただけのお手軽ムックのように見える本書は、その実、幻想小説のファンであれば必読と言っていい掌編集である。微妙な手に取りにくさは認めるが、ぜひご一読いただきたい所存である。
(追記)後日、原書を購入したが、こちらは背幅が2cm以上もあるB5判のハードカバーで、さながら地図帳のような趣の贅沢な本であった。島や街を示した見開きページの地図(Kateryna Didyk というイラストレーターによる)にはごく慎ましやかに緯度経度が添えられていた(探さないと分からないレベルだが)。とはいえ原書の体裁を見る限りでは旅行ガイドブックらしい雰囲気はまったくない。
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