深海通信 はてなブログ版

三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

第十九回:ウィリアム・ベイヤー『キラーバード、急襲』(ハヤカワ・ノヴェルズ)

○空から襲い来る影の恐怖


咲: 今回も始まりましたフリーバトル。

姫: 一定年齢層以外に分かりにくいネタは飛ばします。今回はウィリアム・ベイヤー『キラーバード、急襲』(1981)です。それにしても、まさか本当に殺人鳥(キラーバード)=ハヤブサが急襲してくる話だったとは。読み始めるまで、飛行機の機密にかかわる冒険スパイ小説、具体的にはクレイグ・トーマス『ファイアフォックス』的ななにかかと思っていたわ。

キラーバード、急襲 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

キラーバード、急襲 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

咲: 詳しい話はあとに回して、まずはあらすじから行くよ。

秋の日差しが眩しいマンハッタン島、「ハヤブサ」は獲物を探していた。彼がミラーグラスをずらしたその刹那、超高空から一閃、巨大な殺人鳥が舞い降りるのだ。そして、地元テレビ局のニュースリポーターであるパムの目前で少女が惨殺された時、恐るべき連続殺人が始まった……警察の捜査をあざ笑うかのようにハヤブサを操り人を殺す犯人の目的は?

姫: 警察による捜査小説とサイコパスシリアルキラーものを融合させた作品ね。ジェフリー・ディーヴァー的なアレ、と言えば首肯する人も多いのではないかしら。あ、そう言えば、本筋とは無関係なんだけどひとつだけ。リンカーン・ライムのタウンハウスにハヤブサのつがいが住み続けているのを覚えている? ディーヴァーはこの『キラーバード、急襲』を読んでいるのかしら。ちょっと気になるわ。

咲: 閑話休題。こういうジャンル越境的な作品のはしり、と目されるのはローレンス・サンダーズ『魔性の殺人』(1973)あたりのようだ。分厚い文庫本で二分冊という重厚な作品だけど、ニューヨークという都市を徹底的に描いた都市小説としても出色。

姫: 今回の『キラーバード、急襲』も、やはりマンハッタン島を舞台にして、この場所でしか起こり得ないだろうあまりにも異常な事件を描きだす……と真面目な話を進めて行く流れっぽいのだけど、一旦断ち切るわ。さて、私がこの作品について一言感想を呈するなら、ズバリ「バカっぽい」なのよね。

咲: そもそも殺人の凶器としてハヤブサを使おうという時点で、既に頭悪すぎるわい。おまけにそのハヤブサは、悪の鳥類学者によって血統を操作され、人を殺せるサイズまで巨大化されたという設定が提示された辺りで笑ってしまった。

姫: あらすじでも出てきたけれど、ヒロインはニュースリポーターのパム。犯人は彼女を狙っているらしいのだけれど、その真の目的はいまひとつ分からないまま進むわ。そこで彼女を守ろうとする二人の男が出てくる。一人はイケメン金持ち性格良しと三拍子そろったハーレクインヒーローで、犯人の鷹匠ハヤブサ」に対抗するために、捜査側に協力している鷹匠、ジェイ・ホランダー。もう一人は捜査主任であるしょぼくれ警部のジャネック。好意を寄せてくる二人に対して、パムは(当然)ジェイに惹かれて行く……。

咲: その辺のお約束感も含めて、エンタメに徹した作品ですね。あ、そう言えば巨大ハヤブサを倒すために、テレビ局が日本からナカムラという名前の鷹匠を呼んできて自前のクマタカを戦わせるシーン(爆笑)があった。これまたなぜかサムライのような爺さんで、アメリカ人は、こういうの読んだら間違いなく大喜びするんだろうな、という偏見。

姫: 「彼女を俺のハヤブサにする」「ただ一人を殺すために調教する」と、意味不明かつ不穏当な発言を繰り返す犯人を描写したパートは、なかなか迫力あるわね。捜査やパムの視点を描いたパートと犯人パートは交互に描かれていくのだけれど、なんと作者は真犯人の正体を半分も行かないうちに書いてしまう。もちろんこれを知るのは読者だけよ。それにしても、これはなかなか度胸がいることだわ。読者がそこで読むのを止められない、と確信していなかったら、とてもそんなことは出来ないでしょうし。

咲: 犯人から次々に送られてくるパム宛ての手紙、そして繰り返される凶行。時には殺人に失敗して見せるなど、単調に陥らないように色々考えられているのはえらい。そうこうしているうちに、物語は一気呵成に最終局面に突入する。短い話だしね。

姫: パムが誘拐されるに及んで、ジャネックは真犯人を突き止めることに成功。やつの隠れ家の扉をぶち破った先で見たものは……!

咲: いや、正直驚きました。前もって気づいてもおかしくはなかったけれど、何故か盲点に入っていたみたいなんだ。この狂気に満ちた大オチを書くために、この作品は書かれたのかもな。あまりの衝撃にほとんど笑うしかない戦慄の結末、ぜひお試しあれ。

姫: 途中下車を許してくれない安定した面白さ、犯人が醸すほど良く変態じみた狂気の数々、そして咲口君も絶賛する衝撃の結末まで、なかなかよく出来た佳品ね。若干地味な部分はあるけれど、でも楽しい作品だったわ。

咲: 文庫化はされていないので、読むならハードカバー版を古本屋で探すか、図書館に入っているかというところだろう。ディーヴァーなら何出しても受ける現在だからこそ、是非文庫化してほしい。「アタック・オブ・ザ・キラートマト」的なB級C級感が堪らない作品だ、というと勘違いして読んでくれる人が出るかも?

姫: という感じです。

咲: うーむ、では次回予告。次回はリック・ボイヤー『ケープコッド危険水域』。まだまだ冒険小説の時代は終わりませんよ!

姫: お楽しみに!

(第19回:了)


第十八回:ディック・フランシス『利腕』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

○弱虫泣き虫意地っ張り

咲: はじめますか。しかし、短編読んでたとかインフルエンザとか中の人が忙しいとか、ひと月も開いてしまうと単なる言い訳にしか聞こえないので……毎週更新に戻せるように頑張ろう。

姫: 今回取り上げるのはディック・フランシス『利腕』(1979)です。フランシスは『罰金』に続く二度目の登場ですね。ちなみに『利腕』は、1979年のCWAゴールドダガー賞も受賞しているわ。英米両方で高く評価された、まさしくフランシスの代表作と言って差し支えない作品よね。


利腕 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12‐18))

利腕 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12‐18))

咲: フランシスは原則的にシリーズキャラクターを持たない作家だけど、本作『利腕』で主役を張るシッド・ハレーは例外的存在。シリーズ第一作『大穴』(1965)以来14年ぶりに登板した彼は、のち『敵手』(1995)『再起』(2006)と、四作品に登場することになる。

姫: 『敵手』はエドガー賞受賞作なので、またいずれ扱うことになるわね。あ、あと「例外的存在」とは言ったけれど、他にもチャンピオン騎手のキット・フィールディングが登場する連作『侵入』『連闘』もあるので、シッド・ハレーが唯一のシリーズキャラクターという訳ではありません。念のため。

咲: えーまあ、そちらは出来が微妙なので……(ごにょごにょ)。

姫: 咲口君、以前攻略で『罰金』を取り上げた時のこと(http://d.hatena.ne.jp/deep_place/20120918/1347987785)を覚えている? あの時は、かなり酷評してしまったけれど、今回はどうだったかしら。

咲: これまで何冊かフランシス作品を読んできて、正直自分はこの作家の面白さが分からない人間だと思っていたんだよね。で、今回まったく期待せずに『利腕』を読んで、はたとひざを打ちましたよ。なるほど、そういう作家か、と。

姫: 咲口君の感想も聞きたいところだけれど、まずは規定通りあらすじから入りましょうか。以下〜

厩舎に仕掛けられた陰謀か、それとも単なる不運なのか? 絶対ともいえる本命馬が次々とレースで惨敗を喫し、そのレース生命を断たれていく。馬体は万全、薬物などの痕跡もなく、不正の行なわれた形跡は全くないのだが……片手の敏腕調査員シッド・ハレーは昔なじみの厩舎から調査を依頼された。大規模な不正行為や巧妙な詐欺事件の調査を抱えながら行動を開始するハレーだが、その行手には彼を恐怖のどん底に叩きこむ、恐るべき脅迫が待ち受けていた!(文庫裏表紙あらすじより抜粋)

咲: という風にあらすじではまとめているのだけれど、本当のところ筋はもう少し複雑。前作で別れたシッドの奥さんの実家の持ち馬が狙われているらしいという点は無視できない重要なファクターだ。関係が近すぎて無碍に断ることのは容易じゃないし、逆に相手に捜査を止められても、「はいそうですか」と言ってしまうこともできない。この時点で既に複雑な葛藤が発生してくる。

姫: シッド・ハレーの魅力の一つはその「葛藤」にあるのかもしれないわね。シッドは四六時中葛藤している、とても「ヒーロー」とは言い難い普通のおじさんだわ。上記あらすじの「脅迫」(詳述は避ける)を受けた彼は「逃げ出しちゃダメだ……でもそんなことになるのは嫌だ。」と散々悩んだ末、依頼をほっぽり出して誰にも言わずにフランスの観光地に逃亡してしまったりする(笑)

咲: いやー、でも実際そんなことになってしまうのは嫌でしょう。彼の内面では、なにもかもに目を閉ざして逃げ出してしまいたいという感情が「責任感」という言葉の周りでグルグル渦巻いていて、その混乱は読者にもヴィヴィッドに伝わってくる。

姫: そこで、シッドが無口で感情を表に現わさないキャラクターという設定が生きてくる訳ね。作中人物は、シッドがそんな風に悩んでいることが見えていない。「恐れ知らずのタフガイ」と思われている男の弱さを、誰一人知らない。「ごく普通の男」シッド・ハレーは、「ごく普通の男」に見えないために色々なものを失ってしまう。

咲: その時、読者にだけそのギャップが見えているという構造を持ちだして来るフランシスはあざといまでに巧い。読者は誰もが彼に感情移入できるし、無理解な作中人物への怒り、悲しみ、そして虚しさをハレーと共有できる。だからこそ、勇気を振り絞って最悪の敵に再び立ち向かったラストシーンで敵が放つ一言が、痺れるほどの感動を揺り動かすんだ。

「この世になにかないのか」彼は苦々しげにいった、「お前が恐れるようなものは?」

姫: ハレーが心の底から恐れるただ一つのもの、それ以外の恐れをすべて振り払ってでも陥ってはならぬもの、その正体はあなた自身でこの本を読んでたしかめてくださいな。

咲: フランシスのキャラクターって本質的に弱虫なんだよね。情けないくらい卑屈になってしまう時もあるけれど、絶対譲れぬ「矜持」に関してだけはいじっぱり。実にガキっぽいキャラクター造形だけど、ストーリーの中でそれを上手く活かせた作品は本当に素晴らしい。今から考えると、『罰金』の主人公もそうだったのかな。ま、ラストシーンのひどさについては、まったく評価変わらんけどさ。ま、今回こそは傑作!で文句ありません。

姫: それにしても、今後シリーズが続くなら、泣き虫弱虫意地っ張りなシッド君の本質を理解してくれる友人を創造してあげて欲しいものね。その辺りは、続編『敵手』レビューの際にぜひ検討しましょう。

咲: さて次回は、ウィリアム・ベイヤー『キラーバード、急襲』で、また会おう。

姫: 胡散臭げなタイトルが実にそそる一品ね。お楽しみに。

(第18回:了)

大穴 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-2))

大穴 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-2))

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

「東西ミステリーベスト100」投票10作品紹介・後編

飽きもせず懲りもせず、深夜に更新。本日の更新は5位から1位まで逆順に。

5. ドン・ウィンズロウ『高く孤独な道を行け』(創元推理文庫

高く孤独な道を行け (創元推理文庫)

高く孤独な道を行け (創元推理文庫)

ニール・ケアリーシリーズ第三作。合衆国からの独立を目論む極右グループに誘拐された赤ん坊を救い出すため、ニールはグループへの危険極まる潜入捜査を敢行する。エンタメとしての完成度では前作『仏陀の鏡への道』の方が上だが、個人的にはこちらを高く評価する。これまでの作品でニールは、未成熟で形が定まっていない「少年」だった。「誰でもなく、誰にでもなれる」からこそ「潜入捜査の達人」と呼ばれたのだ。そんな彼が、この荒野の物語を通して「他の誰でもない自分」になる瞬間を、わたしたちは目撃する。極上の成長小説。


4. トマス・H・クック『夜の記憶』(文春文庫)

夜の記憶 (文春文庫)

夜の記憶 (文春文庫)

クックの紛れもなく代表作である「記憶四部作」(と呼ぶのは日本人だけだが)の悼尾を飾る大傑作。『死』、『夏草』、『緋色』という三作すべてを踏まえながら、さらにその上を行く極度に洗練された物語に感嘆するほかない。余りにも陰惨な「己の中の闇」、そしてそこに巣食う「闇のしもべ」との対決の果てに、扉を開けた主人公が提示する未来への希望は、すべての読者の心に深く刻まれるだろう。ゼロ年代を代表する翻訳本格ミステリのひとつにも選ばれた珠玉の名品。


3. マイクル・Z・リューイン『沈黙のセールスマン』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

沈黙のセールスマン (ハヤカワ・ミステリ文庫)

沈黙のセールスマン (ハヤカワ・ミステリ文庫)

アルバート・サムスンシリーズ第四作。病院に働きかけ、面会謝絶患者への面会を許可してもらう、という些細な依頼を受けたことが発端。しかし、サムスンの捜査が進むにつれて、すべての事実が最悪の方向に向かって転がっていたことが徐々に分かってくる。酒を飲まず銃を持ち歩かないナイーヴな私立探偵サムスンは、「正しい人に正しい質問をすること」で、この事件の謎を解き明かしていくが、しかしこの事件にかかわった結果様々なものを失ってしまう。ただ「沈黙のセールスマン」だけを残して。詳しくは読んでもらうしかないです。オススメ。


2. マーガレット・ミラー『殺す風』(創元推理文庫

殺す風 (創元推理文庫)

殺す風 (創元推理文庫)

『殺す風』は「続いて行く日常の中で、既に登場人物たちの世界は決定的に崩壊していて、元には戻れない」というイメージをミニマルにまとめた作品で、非常に好きだ。「わたしの心に、殺す風が遠くの国から吹いてくる。なんだろう、あの思い出の青い丘、あの塔は、あの農園は? あれは失したやすらぎの国、それがくっきりと光って見える。倖せな街道を歩いて行った。わたしは二度と帰れない。」 本作のエピグラムにも使われた A・E・ハウスマンの詩句である。「殺す風」が人間を狂気や死に追いやった後の物語、それこそがミラーの描くものなのだろう。


1. パトリシア・ハイスミス『プードルの身代金』(扶桑社ミステリー)

プードルの身代金 (扶桑社ミステリー)

プードルの身代金 (扶桑社ミステリー)

ハイスミスに捧げる愛の言葉については以前縷々連ねたので、ここであえて繰り返す必要はあまり感じない(【第11便】「略称孤独の本読み第三回 パトリシア・ハイスミス」(http://d.hatena.ne.jp/deep_place/20120313/1331656751))。一点付け加えるならば、ハイスミスは「殺す風が遠くの国から吹いてくる」とは考えなかっただろうということ。彼女は、人の善意を受けながら、いざとなればその実在を無視することが出来る「悪意なき隣人」たちを描き続けた。善も悪もないただ醜悪さの中に「殺す風」の吹き出し口は隠れている。怒りや悲しみといったバイアスを一切退け「その事実をただ書いた」、その集大成とでも言うべき作品が本作だ。

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ということで、実際のベスト100には登場しない作品ばかりの全10作になってしまいましたがいかがだったでしょうか。
誰もが楽しめるような作品はそれほど多くありませんが、面白そうだという作品があれば、ぜひチャレンジしていただければ、幸いです。
国内ミステリもやろうかなとは思いますが、まず自分が何を読んでいるか良く覚えていない上に特に記録も取っていないので、時間がかかりそうです。

さて、深海通信では、寄る辺ないオールタイムベストを募集しています。
ま、例によって一切反応は得られないと思うのですが、僕の私のATB10紹介記事を掲載してもいいですよという人は、本ブログコメント欄、あるいは三門ツイッターアカウント(@m_youyou)までご連絡ください。
紹介記事では、一言コメントを追記いただければなお嬉しいですが、本のタイトルを並べるだけでも無問題です。

ご応募、特に期待せずお待ちしております。

三門優祐

「東西ミステリーベスト100」投票10作品紹介・前編

プロの評論家もすなる「東西ミステリーベスト100」投票10作品紹介というものをやってみたいと思ふ。とはいえ、実際投票した訳ではないので、「もし投票権があったらこれを入れた」程度の参考資料として見て頂きたい。

今日の更新では10位から逆順に6位まで。それぞれ簡単なコメントも付けていきます。


10. ミネット・ウォルターズ『昏い部屋』(創元推理文庫

昏(くら)い部屋 (創元推理文庫)

昏(くら)い部屋 (創元推理文庫)

今回のベスト100では一作も入らなかったが、ウォルターズが現代のイギリスミステリを牽引する作家の一人であることに疑いはない。話題作には事欠かない作家だが、個人的には第四作『昏い部屋』を偏愛する。自殺未遂で記憶喪失に陥った女が、「なぜ自分は自殺を図らなければならなかったのか」という疑問の答えを求めて、断片的な記憶と事実のピースを継ぎ合わせていく。なぜか噛み合わないパズルの果てに垣間見える妄執が形をとって姿を見せる時、全ての謎が解き明かされる。ニューロティックサスペンスとパズラーが、ウォルターズ印の物語の中で結婚を果たす、稀有な秀作。


9. ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫)

グルーム (文春文庫)

グルーム (文春文庫)

一般的にはまったく評価されなくても、俺が好きだから入れた作品。現実世界に直面できず自宅に閉じこもり妄想の世界に没入する青年アイム。思いがけず人を殺してしまったことで、安全な(しかし薄っぺらな)妄想世界が現実世界と繋がってしまい、彼の人生と妄想は破滅への道を歩み始めてしまう。『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』『鏡の中のブラッディ・マリー』と「団地ノワール」で続けて傑作をものしたヴォートランの、奇妙に歪んだ、痛切で残酷で醜悪な寓話。「アイム」はどこか「僕」なんだ。


8. S・J・ローザン『どこよりも冷たいところ』(創元推理文庫

どこよりも冷たいところ (創元推理文庫)

どこよりも冷たいところ (創元推理文庫)

リディア・チン&ビル・スミスシリーズの第四作。シリーズ最高傑作は、エドガー賞受賞作『冬そして夜』でほぼ異論がない出ないと思われるが、忘れ難い印象を残すこちらを推す。大柄で荒事担当とも見えるが、根は繊細なビルが日々の練習の中で少しずつ完成させていくスクリャービンのピアノ練習曲の進捗と事件とが呼応し、二つのストーリーラインが鮮やかに溶け合うラストまで繋がっていく。「レンガ積み職人」という潜入捜査用の職業から得られる教訓も含めて、「謎を解く」ということがどういうことなのかを考えさせられる。


7. マイクル・コナリー『わが心臓の痛み 上下』(扶桑社ミステリー)

わが心臓の痛み〈上〉 (扶桑社ミステリー)

わが心臓の痛み〈上〉 (扶桑社ミステリー)

ハリー・ボッシュシリーズで有名な作者のノンシリーズ長編。強盗殺人事件の被害者の心臓を移植することで生きながらえた元FBI捜査官のテリー・マッケイレブは、自分と事件の関係に悩みながらも懸命の捜査を続けて行く。職業的私立探偵小説の主人公が、報酬以外の意味で「なぜ事件と関わらなければならないのか」という問題の極北を行く傑作だ。マッケイレブはのちにボッシュシリーズの『夜より暗き闇』や『天使と罪の街』(以上二作は講談社文庫)で非常に重要な役割を果たすので、シリーズファンも必読の一作。


6. ジェイムズ・エルロイLAコンフィデンシャル 上下』(文春文庫)

LAコンフィデンシャル〈上〉 (文春文庫)

LAコンフィデンシャル〈上〉 (文春文庫)

ジェイムズ・エルロイの出世作『ブラック・ダリア』に始まる「暗黒のLA四部作」の第三作にして、エンターテインメント性では群を抜く傑作。世の中では超絶文体冴える『ホワイト・ジャズ』や、計算しつくされたショッキング展開が極まった『ビッグ・ノーウェア』が評価されているのは知っているけれど、次々に起こる出来事を縦糸に、輻輳する登場人物たちの想いを横糸に、50年代アメリカという大陰謀を繊細かつ強引な筆力で紡ぎあげて行くLACこそ、俺の中では至極。チョイ悪になりきれないエリートくずれのエド・エクスリーに強く感情移入しているってのは、捨てきれないけれど。

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明日は5位から1位まで公開の予定です。


週刊文春臨時増刊 東西ミステリー ベスト100 2013年 1/4号 [雑誌]

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第十七回:ウィリアム・H・ハラハン『亡命詩人、雨に消ゆ』(ハヤカワ文庫NV)+ケン・フォレット『針の眼』(創元推理文庫)+アーサー・メイリング『ラインゴルト特急の男』(ハヤカワ文庫NV)

○寂れて古めかしい遊園地

咲: イントロを入れるのももったいないほどに遅延しているので、サクサク進めますぞ。

姫: 不人気ブログの唯一にして最高に不人気なコンテンツですものね。せめて安定した更新くらいは守っていきたいものですが。

咲: まあ、色々あるのだよな。さて、今回は予定を変えて一挙に三冊やります。一冊目のウィリアム・H・ハラハン『亡命詩人、雨に消ゆ』(1977)は、こんな話。


亡命詩人、雨に消ゆ (ハヤカワ文庫 NV 304)

亡命詩人、雨に消ゆ (ハヤカワ文庫 NV 304)

強い雨が降りしきる四月のある日、ソ連から亡命した一人の詩人が誘拐された。連れ去ったのはソ連当局のエージェントだという。亡命してすでに二年、政治とは無縁の存在である彼がなぜ? ふとした偶然からその謎を解く鍵を発見した移民帰化局のリアリィは、独力で秘かに調査を開始する。一方、任務の失敗からCIAを追われ、失意の日々を送っていたブルーワーも、元上司の依頼で詩人の救出に乗り出した。(文庫裏表紙あらすじより)

姫: 詩人として全世界的に高い評価を得ているボリス・コトリコフの失踪事件を二つの立場から描く作品です。「なぜコトリコフは誘拐されなければならなかったのか」という謎に迫るリアリィのパートと、「いかにしてコトリコフを救出するか」という問題に取り組むブルーワーのパートが交互に描かれていきます。

咲: リアリィはコトリコフが接触していたある組織を末端から手繰っていく。捜査局の人間も気づかなかった些細な点から一歩ずつ捜査するあたりは、その独断専行も含めて私立探偵小説風の趣だ。とはいえ、誰が攫ったのかは分かっているし、(リアリィは「何故か」分からなくても)読者にはコトリコフ誘拐の動機はすぐ分かる。おまけに捜査したからって、リアリィに出来ることって本当になにもないんだよな。理解しただけ。自己満足。

姫: 現役捜査官のリアリィに対して、ブルーワーはCIAを馘首になって酒浸りになっている、見事に尾羽打ち枯らした引退スパイです。今回与えられたコトリコフを救助する任務を、上手くやればCIAに戻れるかもと期待している。救助任務とは言っても、コトリコフが閉じ込められている場所や、実際に救助する方法はCIAが用意してくれて、それを成し遂げるのが彼のお仕事なのね。だから、筋トレや器具の操作法の練習ばかりしてます。不安になっては、やっぱり俺はロートルだと愚痴をこぼすのがチャームポイント。

咲: リアリィとブルーワーは、まったく違う次元で動いているし、二人の動きが重なり合うことはない。両方を知っている読者ゆえに気づく事実とか、そういうのも一切ないんだよね。ホント、なんのために物語に二つの軸を導入したのか分からない。

姫: うーん、思考担当と実働担当を分けた方が、話が複雑になり過ぎなくて済むって考えたんじゃないかしら。実際、物語の進行は非常に分かりやすいし。向き不向きをきちんと考えて、適材適所でキャラクターを動かして行くのがスマートなやり方、というアメリカ的手法が作品に生きているのでは?

咲: それはあるかもね。正直、一つの事件から派生したそれぞれのパートはまあまあ面白いんだけど、一個の作品としてはまったく不完全だ。あえて今読む必要はないと思う

姫: 同感ね。いまやジェフリー・ディーヴァーとかが、こういう物語の作り方を完成させてしまったから、古めかしい作品はどうしても厳しい。ディーヴァー作品はジェットコースターにも例えられる強烈なサスペンスが売りだけれど、『亡命詩人〜』は、あまりにもぬるすぎるわ。


○作者の趣味が溢れる小説

咲: お次はケン・フォレット『針の眼』(1978)。冒険小説のオールタイム級名作と呼ばれている作品だ。ハヤカワ文庫NV→新潮文庫創元推理文庫と版元を移動し、翻訳を新しくしながら三度も文庫化されている辺りに、その人気のほどがうかがえるね。

姫: あらすじは以下のとおりよ。


針の眼 (創元推理文庫)

針の眼 (創元推理文庫)

連合軍の上陸地点がカレーかノルマンディかを突き止めよ! 連合軍の最重要機密を入手した、ドイツの情報将校ヘンリー、通称「針(ディー・ナーデル)」は、その情報を一刻も早くアドルフ・ヒトラーに直接報告するため祖国を目指す。英国陸軍情報部の追跡を振りきった彼はU=ボートの待つ嵐の海へ船を出すがあえなく遭難してしまう。

咲: ようするに第二次世界大戦版『ジャッカルの日です、と言ってしまうと身も蓋もないけれど。英国軍の渾身のブラフを看破して、ノルマンディ上陸作戦の秘密を突き止めた「針」(スティレットと呼ばれる短い刺突剣を使うことからついたあだ名)が、英国諜報部の眼をすり抜け裏を掻きながら味方との合流を目論む前半はまさにそれ。

姫: ノルマンディ上陸作戦は史実では成功しているので、ようするに「針」はなんらかの理由で真実をヒトラーに伝えられなかったハズ。臨時に諜報部顧問になった中世史学者ゴドリマンや警視庁のブロッグス警部らの手によって脱出を阻まれたのだろうなあ、と思って読み進めていくと……

咲: 残念ながら、「針」は諜報部の手から逃げおおせてしまう。そして一時の不運から、スコットランド北部の孤島に漂着するんだ。ゴドリマンたちにとってみれば、「針」の生死が確認できない以上、不安は残る。その孤島に人を送って確認させようとするが、嵐と霧のために実行は不可能。結局、「針」とU=ボートの接触を防ぐ者がいるとすれば、それは孤島に住む羊飼いの青年とその妻しかいないということになってしまう。なにも知らない彼らに、英国軍の作戦の成否が、そして英国の未来が掛かっていく!

姫: 羊飼いの青年といっても、そこらの純朴な青年という訳ではない。彼は数年前に徴兵され、飛行機乗りとして前線に赴く直前に事故に遭い、今では車椅子生活を余儀なくされている、という設定。物語の序盤から語られていく彼とその妻の人生の物語は悲しく残酷だわ。ぜひとも国のために働きたいのに、不具者となったために孤島で引き籠った生活を余儀なくされる怒りと悲しみに焦れる男。ずっと彼の傍にいて、彼を支え続けなければならないと考えつつも、数年来夫とベッドを共にすることのない生活に、微かな不満を募らせていく女。二人の間に積もるすれ違いは作中、戦争の状況以上に微細に克明に描かれていく

咲: そこに「針」が現れる。それが触媒になって起こる歪みの暴発、鬱屈する憎悪。男女間の心理をこれでもかと描き、心理小説としての側面を際立たせているのは、冒険小説としては珍しいよね。

姫: 最終的に打ち出される「戦う人妻」のイメージって、フォレットの他の小説にも出てくるのよね。『大聖堂』とか。ブロンド美女で気丈で大切な人を守るために立ち上がる女、っていうのが作者の趣味なんでしょうね。わっかりやすーい。

咲: そこは許してあげようよ。

姫: ということで、単純なスパイを追う/追われるという構図だけではなくて、そこに緻密な(でも卑俗な)心理模様が散らされているという点で、やや新しいと言えるのではないかしら。

咲: 結末はやや弱いかな。「針」も作者と同じく人妻好きだった(っぽい)ので、この作品は「欲求不満のエロ人妻最強伝説」の一書として読まれていくといいと思います。

姫: ひどいまとめだけど、間違ってもいないのが辛い。


○「ラインゴルト特急の男」って誰のこと?

咲: 最後はアーサー・メイリング『ラインゴルト特急の男』(1979)です。さてあらすじは以下の通り。


ラインゴルト特急の男 (ハヤカワ文庫NV)

ラインゴルト特急の男 (ハヤカワ文庫NV)

イギリスで現金密輸を請負う一匹狼、コクラン。今回の仕事は、35万ポンドをスイスに運ぶというものだった。いつもの依頼人ではなく、しかも大陸縦断特急<ラインゴルト>を使えという。コクランは疑惑を抱くが、密輸業を公にすると脅され、仕事を引き受けるだが彼は知らなかった。夢想だにしない罠に自分が落ちてしまったことを。(文庫裏表紙あらすじより)

姫: あらすじには「男の戦い」とか書いてあるんだけど、この「戦い」が始まるまでがえらい長いのよね。その話をする前に、まずはもう少しキャラクター設定を補充しましょ。主人公の一人コクランはアメリカ人ながら、ロンドンに暮らす男。過去の誤ちから労働許可証が取れなくて、生きるために仕方なく、ある男の手先になって現金の密輸に手を染めている。そんな彼が突然、別の男から呼び出しを受けて35万ポンドを運べと強要されるのが発端よ。

咲: この作品の中で、もう一人異彩を放つのが常習的犯罪者のオローク。彼は、コクランに現金輸送を依頼した男の依頼で、コクランから現金を奪おうとする(そう、こういう複雑なプロットを背負ったクライム・ノベルです。冒険小説じゃないのよ)。自分の目的のためなら、邪魔な人間はごく自然に殺し、必要なものはごく自然に奪う、情動に相当の歪みを抱えた男なんだ。このオロークが張り巡らして待つ罠に、何も知らないコクランが飛び込んで行く、という話のはずなんだけど……。

姫: 一つ一つ準備を整えていくオロークとは対極的に、コクランはアメリカからやってきた中世史家で美人の人妻に惚れてしまうのよね。なんとか仲良くなりたい、でも俺のようなカルマを背負った人間の屑に彼女を幸せにすることなんて無理だ、とモジモジしまくりのコクランに対して、読者はいい加減現金を持って移動を開始しろよ、と焦れていく。

咲: ロンドンを出発するまでが長いし、出発してからも彼女のことと自分の過去のことばかり語り続ける。ラインゴルトの出発点であるオランダについても、彼女に会いに行ったりしているうちに乗り遅れてしまう……おい、いつ<ラインゴルト特急>に乗るんだよ!

姫: コクランの惑溺と対照的に、なぜか計画が上手くいかないオロークも焦っていく。<ラインゴルト特急>に乗る前に決着をつけるという彼のプランは、コクランの思いつきによって完全崩壊。二人のすれ違う意志は、ついに二枚舌の依頼人と現金の正規の持ち主をアムステルダムに導くに至り……と8割がた話してしまったわね。

咲: 二つのストーリーラインの、時間的・感情的な噛み合わなさはテクニカルでなかなか面白いんだけど、肝心のお話の中身は薄っぺらなんでね。この作品最大の問題点は、二人の犯罪者を操る黒幕のキャラが弱すぎて、あまりにもあっさり退場してしまうところか。

姫: 作品としてはまったく見るところがないのよね。コクランの過去も完全にお涙ちょうだいで、異常者異常者連呼されるオロークも、サイコ殺人者を読み慣れた目には、せいぜいリプリーくらいのダメ人間に過ぎない。リプリーには可愛げがあったけれど、オロークにその方面は期待できないし。

咲: ちょっと良く出来ている作品だけど、読む必要はないと。


○まとめ

姫: なんか、今回はいまいちテンションが上がらなかったな。『針の眼』くらい?

咲: 人妻好きなら。あとの二作品は、正直読む価値なしという結論だね。

姫: ロシア人詩人が出てきて、作中フランスやイタリアに行くとか、オランダでの衝突がクライマックスで、大陸縦断特急がモチーフになっているとか、エドガー賞はどうもそういうエキゾチック」な雰囲気を醸す作品に弱すぎる気がする。

咲: アメリカ人の読者がそういう作品を求めているということなのだろうなあ。内容的には正直たいしたことがなくても、諸々の要素だけで下駄が入る。

姫: わがまま言う訳じゃないけど、真っ当に面白い作品読みたかったわ。まあ、その辺は次回に期待しましょうか。

咲: 次回は、ディック・フランシス『利腕』ウィリアム・ベイヤー『キラーバード、急襲』の二作品。いざとなればもう一冊増やす気持ちで行こう。

姫: フランシスの超傑作キマシタワー。

咲: はあ、ま、特段期待せずに読みますよ。

(第17回:了)

オリエント急行戦線異状なし

オリエント急行戦線異状なし

第十六回:ブライアン・ガーフィールド『ホップスコッチ』(ハヤカワ文庫NV)+ロバート・B・パーカー『約束の地』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

○石蹴り遊びのスパイごっこ

咲: 16回目ともなるといい加減前口上も言うことがなくなるな。座談会やめるか。

姫: どうしても座談形式に拘らなければならない理由はないのだけど、一人ブレインストーミングをやっているような感じで、時たま面白い考えが出るので有効とのこと。ぐちゃぐちゃ言っていないで始めるわよ。

咲: へえい。一作目はブライアン・ガーフィールド『ホップスコッチ』(1975)。映画化もされたらしいけど、DVD化まではされていないのかな。ちなみに“hopscotch”というのは「石蹴り遊び」のことを指すものらしい。「石蹴り」と言ってもピンとこないので、グーグル先生にお伺いを立てたところ、こういうサイトが出てきたので参考までに。 http://igirisunogakko.blog98.fc2.com/blog-entry-139.html

姫: ようするに「厳格なルールに従って、一定のルートを辿る」遊びね。本作の特性をピタリと言い当てた、面白いタイトルだと思うわ。さて、あらすじ。


ホップスコッチ (ハヤカワ文庫 NV 262)

ホップスコッチ (ハヤカワ文庫 NV 262)

「君もいい歳だ。最前線で敵とやり合うような仕事は若いものに譲って、引きさがってはどうかね」 分からず屋の上司の手によって、書類整理の閑職に回されてしまったケンディグ。数ヵ月後CIAを退職した彼だったが、タフな諜報員は転んでもただでは起きない。書類仕事の中でつかんだ事実を元に、世界各国の陰謀を暴露する本を執筆し始めたのだ。各国スパイ組織は、彼を粛清し、本の出版を取りやめさせるために大慌てで蠢きだすが、ケンディグはその動きをとうの昔に予測して、次の手を打っていた。

咲: スパイの復讐劇……というにはなんだかずれた、不思議とほのぼのした話。なにせ、このケンディグというオッサン、別に家族を殺されたとかそういうのでは全くなしに、前線でがっつり活動していた時期のスリル溢れる人生をとりもどすために、世界各国を自ら敵に回しに行くくらいだから。

姫: このおじさまがまたとんでもない切れ者なのよね。「俺がこういう風に手がかりを残すと」→「こういう反応をするだろうから」→「そこに罠を設置して、さらにさりげなくまた手がかりを残して」と、CIAほか相手方の心理をピタリと読み当てて、誘導していく。諜報員たちは悔しいけれど、ケンディグが決めたルールに則って、鬼ごっこの鬼をやらされることになる。

咲: 「あいつらに出来る限り予算を無駄遣いさせてやるぞ!」とか言うし。

姫: 冴えないおじさまがスパイ組織を引っ掻き回す話と言うと、ブライアン・フリーマントルのチャーリー・マフィンシリーズとかそうかしら。最大の敵は味方という二律背反に捕らわれながらも最後に一発かましてやる『消されかけた男』(1977)、復讐に燃えるチャーリーがMI6もCIAもまとめてきりきり舞いさせる『再び消されかけた男』(1978)と、わたしが読んだ中だけでも傑作ぞろい。

咲: ケンディグは単なるスリル・ジャンキーだから、生き残りに必死なチャーリー・マフィンよりある意味では性質悪いと思うよ。

姫: この作品最高に感動的なシーンは、中盤、諜報員たちの眼を欺いて、小さなセスナに乗って南の島に移動するところじゃないかしら。パイロットの女性と、料金やら目的地やらを巡って喧々諤々やり合った末仲直りした二人は恋に落ちる。ひとしきりあって、いよいよ飛び立った飛行機の中でケンディグは「私は飛行機乗りになりたかったのかもしれない」と述懐するんだけど。

咲: このシーンがラストシーンでもう一度参照されて、ちょっと感動させられちゃうんだよな。むっちゃくちゃな話なのに。あと、CIAの新米諜報員ロス君の成長も熱い。最初はホントに何にも出来なくて、ケンディグにしてやられて悔しがるばかりなのに、濃い衆にもまれて辿りついた終盤ではいつの間にか、CIAの誰よりも早くケンディグの先の先を読み始めていて、先生役の諜報員(こいつがまたケンディグの元部下だったりして熱い)も嬉しくなったりして。

姫: ケンディグの凝らす策謀は「どんでん返しの連発」(©ジェフリー・ディーヴァー)とまではいかないのだけど、ほどよくアクが利いていて、とにかく読ませる。ユーモラスな娯楽作品としてはなかなかに優秀な作品ね。

咲: 実は、この暴露事件は現実に起こった事件に取材して書いたものらしい。その辺は、フォーサイスの『ジャッカルの日』を思い出させるね。でも、事件そのものをまったく知らなくても十分楽しめたので、臆せず読んで欲しい。


○ハードボイルドごっこの行く末

姫: 二作目はロバート・B・パーカー『約束の地』(1976)です。そういえば、覚えているかしら。こんなやり取りを……

咲: (略)チャンドラーの後継的存在はむしろ、主人公に弱みを持たせることでキャラ立ちさせることを選んだネオ・ハードボイルドの諸作家ではないかな。

姫:まあ、今日はそのくらいにしておいてあげるわ。ロバート・P・パーカー『約束の地』の回にその辺をきちんと説明してもらいますからね。(第二回:レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』より)

咲: そんなのねちっこく覚えているのは中の人と君くらいのものだろ!

姫: 約束はあとでもいいから、まずはあらすじを。こんな内容ね。


新しいオフィスでの最初の客は、シェパードと名乗る中年の男で、家出した妻パムを捜し出してほしいという。スペンサーは、翌朝シェパードの自宅を訪ねるが、そこで凄腕の借金取り立て屋と出くわす。どうやら彼の抱える問題は妻の家出だけではないらしい。一方パムはウーマンリブ運動家たちが企てた銀行襲撃事件に巻き込まれていた……現代風俗と男女のあり方を鮮やかに描く、アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞受賞作。(文庫裏表紙あらすじより)

咲: 主人公に弱みを持たせるとか一面的な見方に過ぎなかったことは良く分かりました。スペンサーは、ベンチプレス300kg持ち上げるタフガイだけど読書家でもあり、美人の恋人とむやみやたらとはいちゃいちゃせず、依頼人の女にやさしく綺麗好きで料理上手な、恋人にしたい男ランキング上位確実のいいおっさんだもんね。

姫: まさしく完璧超人よね。今回初登場で、レギュラー化するホーク(凄腕の借金取り立て屋)もいい感じだし、いやむしろ┌(┌^o^)┐ホモォ...

咲: ヤメロ!

姫: 自重しました。

咲: 読んでいて思ったのが、スペンサーって朝昼晩きちんと食べるんだなということ。さっと自分で作る場合もあるし、そこらへんのダイナーで済ませる場合もあるけれど、主人公が三食きちんと何を食べたか書いてある(ハードボイルドに限らず)ミステリ小説というのもなかなか珍しい。こういう本も出ているくらいだ。


スペンサーの料理

スペンサーの料理

姫: 日常生活がきちんと管理されているのよね。節制されていて、昼ごはんはエール飲んですませた、みたいなことがない。この「自己管理能力」というのが、スペンサーシリーズを読む上でのキーワードになってくると思うの。

咲: スペンサーという男は、「自分の考える正義」に非常に忠実な男だと思った。ここには自己管理も含むよ。彼自身この正義が絶対万能のものだとは考えていない。だけど、自分の手の届く範囲、関わった事件の範囲では、こいつをきちんと守ろうとする。逸脱を許さないんだ。依頼人を脅しているマフィアを逮捕する算段を練り、家出した依頼人の妻が巻き込まれた、過激すぎるウーマンリブ活動家を退治する。

姫: 私立探偵というのもなんだか怪しげな職業だけど、スペンサーはなんだかどこまでも健全に見える。健全な男が健全な正義観のもと自分の周りの不健全さを片付けていく話、と読める訳。これは受ける。アメリカ人には特に受けるでしょうね。

咲: ものすごく分かりやすくアメリカ的なストーリーだからね。「スペンサー」を「合衆国」に置き換えるだけでいい。世界のヒーロー、アンクル・サム

姫: 面白い話だと思って読んだけれど、そう言う風に読み変えていくとなんだか生臭い感じになってしまったわね。

咲: こういういかにもアメリカ人好みの作品がこの賞を取っている例が少なくないんだよねー。また後日出てくるとは思うけど。


○まとめ

姫: 今回は、どちらも「ごっこ遊び」の話だったということで。

咲: スパイごっこと正義の味方ごっこか。

姫: そういう斜に構えた読み方をするところは感心するわね。

咲: 褒めてないな……まあいいや、えー、次回は、ウィリアム・H・ハラハン『亡命詩人、雨に消ゆ』ケン・フォレット『針の眼』の二作です。

姫: 来週もまた見て下さいねー。

(第十六回:了)

再び消されかけた男 (新潮文庫)

再び消されかけた男 (新潮文庫)

ロバート・B・パーカー読本

ロバート・B・パーカー読本

第十五回:トニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』(ハヤカワ・ミステリアス・プレス文庫)+ジョン・クリアリー『法王の身代金』(角川文庫)

○想定外から想定外へ

咲: やや遅れましての第15回です。二点ほど想定外の事態が起こり、攻略座談への対応が遅れる形に。

姫: 図書館で借りるつもりだった『法王の身代金』が手元に来るまでに二転三転したのと飛び込みの原稿依頼が入ったせいね。我儘を言って読みやすい本にしてもらったみたいだけど、本を読むのに時間を取られて原稿を書けないなんて、いささか間が抜けているわね。

咲: まあまあ。とりあえず、今回も二本立てで進むよ。一作目はトニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』(1973)です。


死者の舞踏場 (ミステリアス・プレス文庫)

死者の舞踏場 (ミステリアス・プレス文庫)

姫: そこここで呟いたりもしたみたいだけど、『死者の舞踏場』は中の人にとっては再読に当たります。この攻略作戦で取り扱う本の中で既読は『毒薬の小壜』以来だから、実に10数作振り。いかに60年代の名作を読んでなかったか、という傍証ね。

咲: 前回読んだ時、別ブログで割と褒めた覚えがある。まだアカウント消してはいないので、当時の感想も見たりすると面白いかもね。

姫: まあ、いいわ。とりあえずあらすじを……。

ズニ族の少年と、その友人であるナヴァホ族の少年が行方不明になった。ナヴァホ族警察のリープホーン警部補は、ズニ族警察と共同で二人の捜索を始めた。が、ズニ族の少年は遺体で発見され、さらに新たな殺人事件が。やがて、FBI、麻薬取締官も介入し、事態は複雑な様相を呈していく。(文庫裏表紙あらすじより)


○神話と歴史

咲: 本作でもそうだけど、ヒラーマンの作品では基本的にネイティヴ・アメリカンの習俗や神話がその世界観をがっちり支えている。主人公であるリープホーン警部補は、自身ナヴァホ族の一員であるにもかかわらず、それらの習俗とは一線を引いているというのが特徴だ。自分たちの文化を否定したり、白人の文化をことさら礼賛したりすることはしないけれど、例えば人びとを惑わす呪術師には強い憤りを覚えていたりする。

姫: この作品ではまだ出てこないけれど、ヒラーマンのもう一人の探偵役チー刑事が、ナヴァホ族の歌い手となり、伝統的な仕事を引き受けているのとは対照的ね。彼の態度は、ネイティヴ・アメリカンの文化をよく知っているけれど深入りせず、一歩引いた視点から事件を分析できる」という、作者の求める主人公像にピタリと嵌る。

咲: といっても、リープホーンはこの事件で捜査陣のメインとして動く訳ではない。彼の仕事はむしろ傍流。あらすじにもあったように、今回の事件ではFBIほか強い権力を持った連中が多く出張っている。だから、現地捜査官のリープホーンには「目撃者の可能性が高い(そしてあるいは犯人であるかもしれない)少年を捜索する」という、重要度のさほど高くない任務しか割り振られないんだ。

姫: まあ、その傍流を丹念に辿っていくことで、事件の本質に至るというのはみなさん御想像の通りなんですけれど。

咲: 「ナヴァホでありながらズニ族の魔術師を目指した少年はなぜ消えたのか」という大きな謎に周囲のこまごましたエピソードが絡みついて行って、一点の気づきから終盤一挙に解決に持ち込む、という非常に良く出来た謎解き小説。神話と習俗にまつわる物語なんだけど、明かされる真実には、それに加えていやらしい生臭さが付きまとう。

姫: この事件の真相と共通の根を持つ事件が、10年ほど前に起きたわよね……というのは既に過去の感想に書いたのでやめましょ。あ、そう言えば『死者の舞踏場』を読んですぐに読んだ小林泰三の短編集に同じネタが……。

咲: ネタバレやめ! ともあれ、ヒラーマン(2008年没)は相当の実力派なので、全作品切れで埋もれているのは惜しい。リープホーンとチーが登場する作品は全部で18作書かれているんだけど、翻訳は第12作(ただし初期に抜けあり)まで出ている。なんとかどこかの出版社で復刊出来ないのかな。(チラ

姫: 例えばアンソニー賞を受賞した第7作『魔力』(1986)は、野良猫と付き合いを深めるチー刑事がいきなりショットガンをぶっ放されるシーンから始まるショッキングな作品。犯人(正体は不明)の思考が時々差し挟まれて、読者だけはその動機をうかがい知ることが出来るのだけど、その時点ではまったく理解できないのよね。

咲: 丹念な捜査によって、周辺で起こった複数の事件に実はつながりがあることが明らかになっていき、その中で犯人の呟きの意味が理解できるという仕掛け。そしてそこからさらなるどんでん返しが……やっぱり良作だなあ。

姫: 「ショッキングな出だしから、確かな捜査描写と目新しい習俗の話を展開させ、予想外の真相へと持ち込む」という、安定感のある確かな実力の持ち主なので、みなさんぜひ読んでください……といっても版元品切れなのよねー。アーロン・エルキンズの次にブームが来るかと思ったのに、来なかったのは残念。

咲: よーし次々。


○がっつりてんこ盛り

姫: 二作目はジョン・クリアリー『法王の身代金』(1974)ね。この作家、今となってはまったく無名だけれど、作家としてのキャリアも長いし映画化した作品もいくつかあるしで、当時は割と人気があったみたい。


法王の身代金 (1979年) (角川文庫)

法王の身代金 (1979年) (角川文庫)

咲: 角川文庫には割とそういう本多いよね。言ってしまえば、その瞬間のブームを的確に切り取っていたといえるのだろうけれど。今売ってもまずダメだろうから、絶対に復刊されないし、今後は忘れ去られていくのみなのだろうな。

姫: まあそう言わずに。とりあえず以下あらすじよ。

IRAの活動グループが、ヴァチカン大聖堂の下に延びる秘密の地下道に潜入した。財宝を盗みだし、法王庁から巨額の活動資金をゆすりとるのが目的だった。だが、“宝物庫”にあと一歩の地点で落盤事故が起きた。命からがら地上に飛び出した一味は、無人のはずの通廊で思いもかけぬ人物と遭遇した。法王マルチン六世である。法王はその場からただちに拉致され、やがて1500万マルクの身代金要求が法王庁に突きつけられた。囚われの法王の運命は? 巨額の身代金の支払いは? だが、法王の命を狙う謎の暗殺者が出現するに至って、事態は風雲急を告げる!

咲: 主人公はIRAの協力者で、法王庁に勤める広報官であるジョン・マクブライトだ。彼はテロリストとしては素人同然。父親は生粋のテロリストなんだけど、彼がその活動の最中に死んだことをジョンは気にしていて、しばしば暴力的な手段を使うなと仲間たちに働きかけていく。

姫: ジョンと父親の関係は、同時に謎の暗殺者とその父親の関係に敷衍されるのね。さらにそこに法王マルチン六世の過去の「悔い」がオーバーラップされて、重層的な物語世界を構築している……うーん、文学の香気漂う……

咲: そういう嫌味はさておき、この作品、誘拐小説/冒険小説としては致命的に面白くないんだな。その理由は、そもそも物語の展開が遅いことにあるのではないかと思う。

姫: ネタって何よ。まあ、次々に新しい展開が出てきて飽きることはないんだけれど、でもひとつひとつのパーツの動きがもっさりしていて洗練されていない。もう少し具体的に言えば、一つ一つのイベントやキャラクターに「個別の物語」を載せすぎなのよね。過積載の「物語」を制御しきる腕力は不足しているのに、欲張り過ぎだわ。

咲: それこそ、ディーヴァー御大やらキング様ならどうとでもしてしまうところだろうけれど。そもそも設定からしてIRA、ナチ、法王庁と、普通の作品なら一つで十分成り立つところを三つも盛っているんだから、無理があるに決まっている。

姫: 一つ一つのエピソードには面白いところはあるけれど、やはり全体の統一感がない。しゃっきりした骨格も見えてこないし、年間最優秀長編に選ばれる作品とは思えない。これもまた「なんでこんなの選んだ」賞のひとつと言わざるをえないわ。

咲: ジャック・ヒギンズとかを色々と先行した作品ではあるんだけど、比べられるようなレベルではないね。


○今回のオチ

姫: 今回は、良作一つ、凡作一つということでトントンだったわね。次回はどんな感じかしら。

咲: ブライアン・ガーフィールド『ホップスコッチ』ロバート・B・パーカー『約束の地』の二本立ての予定。お仕事がさっくり終わればまた日曜日に挙げたいところだけど、そう上手くいくとは思えんなあ。

姫: やれやれ、ま、こちらは適当に頑張りましょう。

(第15回:了)

魔力 (ミステリアス・プレス文庫)

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嵐の眼 (ハヤカワ文庫 NV (852))

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第十四回:フレデリック・フォーサイス『ジャッカルの日』(角川文庫)+ウォーレン・キーファー『リンガラ・コード』(角川文庫)

○お久しぶりの更新

咲: 六週間ぶりの第十四回です。ほんとうにこのまま連載終了では、と思った人も少なくないのでは。

姫: 「読まなければならない新刊が溜まりすぎて、攻略用の本を読めない状態だったので、許してほしい」というコメントを頂いております。実際、十月に読んだ本のうち何冊がランキングに絡んでくるのやら。

咲: それは言わないお約束でしょう。

姫: さておき、今回以降数回は二本立てで進めていきます。巻きをかけていかないと、目標に追い付けないものね。

咲: 目標?

姫: 2013年のエドガー賞が発表されるくらいまでには、なんとか攻略終了したいじゃない。

咲: なるほど。ではキリキリ始めよう。一冊目のフレデリック・フォーサイスジャッカルの日』(1971)のあらすじは以下の通り。


ジャッカルの日 (角川文庫)

ジャッカルの日 (角川文庫)

フランスの秘密軍事組織OASは、6回にわたってドゴール暗殺を企てた。だが、失敗に次ぐ失敗で窮地に追い込まれ、最後の切り札、凄腕のイギリス人殺し屋を起用した。
暗号名ジャッカル―ブロンド、長身。射撃の腕は超一流。
だが、OASの計画はフランス官憲に知られるところとなった。ジャッカルとは誰か? 暗殺決行日は? ジャッカルのフランス潜入地点は?
正体不明の暗殺者を追うルベル警視の捜査が始まる―全世界を沸かせた傑作ドキュメント・スリラー。(角川文庫裏表紙あらすじ)

姫: あら、手抜き?

咲: 簡にして要を得たあらすじだったので流用したまでさ。さて、本作はフォーサイスの処女作だけど、実際「処女作」でエドガー長編賞を取っている例はそう多くない。なにしろエドガー賞には「処女長編賞」があるんだからね。ちなみに、同年の処女長編賞は短篇の名手として知られるA・H・Z・カーの『妖術師の島』です。

姫: 「処女作で長編賞」というケースを数えあげてみると、『ジャッカルの日』を含めて7作、1970年以前はシーリア・フレムリン『夜明け前の時』1作のみとのこと。確かに納得ね。とてつもないパワーのある作品でないと、こういうことは出来ないんだわ。


○『ジャッカルの日』の超時代性

咲: 『ジャッカルの日』が、当時ここまで高い評価を得るようになった一つの要因は、この作品が抱えた強烈な「同時代性」にあると思う。実際、この作品は、ドゴールが動脈瘤で亡くなった1970年11月から、わずか数カ月しか経過していない時期に発表された作品だ。当時の読者にしてみれば、(仮想のものとは言え)当代きっての世界的有名人の暗殺計画を扱った、極めてスキャンダラスな一書と感じられただろうことは疑いない。

姫: それも、恐ろしくリアルな……ね。フォーサイスは、ドゴールの傲岸な性格(暗殺者の手から逃れるためにあらゆる防護手段を講じることを禁ずる!)、警察・国防軍の組織の在り方、実際の捜査方法などありとあらゆる点を入念に取材していて、その通りに実行できるなら、本当にドゴールを暗殺しかねない方法をジャッカルに与えたわ。彼の暗殺計画はパズルのように緻密に組み立てられていて、荒唐無稽な部分はほとんどない。

咲: 実際、フォーサイスは某国のクーデター計画を立案していて(失敗したけれど)、後にそのネタを小説化したこともあったとか。

姫: そういう、同時代にあってこそ楽しめる「あるある」ネタで40年後に読む私たちには分からない部分がある、ならばいまさら読む必要はないのでは……と考えた貴方、それは大きな間違いよ。むしろ、そういう「あるある」ネタが伝わらなくなった現代だからこそ余計な部分が捨象されて、抽象度の高い「凄腕暗殺者vs凄腕警察官」の頭脳対決になったとさえ言える。これぞ「超時代性」の傑作。

咲: 読者はとにかく「ジャッカルは失敗して、ドゴールは死なない」ということだけ前提として教えられ、それ以外はまったく不明のまま読み始めることになる。つまりこの作品は、ジャッカルの完璧な暗殺計画が「いかなる些細な躓きから失敗に至るか」という謎を読み解く、一種倒叙ミステリのような構成を持っているんだ。

姫: 一番分かりやすい類例は、ジェフリー・ディーヴァーの「リンカーン・ライム」シリーズでしょうね。完璧な計画を手に登場した殺人者を、細かな証拠の連なりから徐々に先回りし、最終的には隙をついて失敗に追い込む。そういう意味で『ジャッカルの日』は、ディーヴァー作品と比べても遜色のない、極めて緊密なスリルとサスペンスを楽しめる作品になっています

咲: 「ドキュメント・スリラー」という断りが、作品に強く影響を及ぼしているのも興味深いところだね。事実に即しているからこそ、「暗殺者には屈しない」ドゴールの無茶苦茶な要求も、ドゴールが(この時点では)死なないという設定も、無理なく読者に飲み込ませることが出来る。綿密な取材によって組み立てられた「架空の現実性」が、にわかには信じがたい「現実の架空性」をねじ伏せている。凄い作家だよ。


○激動の60年代編

姫: 二冊目のウォーレン・キーファー『リンガラ・コード』(1972)はこんな話よ。


リンガラ・コード (角川文庫)

リンガラ・コード (角川文庫)

1962年、独立後間もないコンゴは、国内の紛争に大国の思惑が絡み、一触即発の不穏な空気に包まれていた。
マイク・ヴァーノンは、表向きは合衆国大使館員だが実はCIAの職員で、現地における情報収集がその任務だった。彼は部下とともに、部族語を応用した難解な暗号、リンガラ・コードを完成した。だがそれが、親友テッド殺害犯人の追跡調査に役立とうとは知る由もなかった。(角川文庫裏表紙あらすじ)

咲: 例によって裏表紙から引用してみた。大筋を整理してみると、親友のCIA職員テッドが強盗に射殺された事件と、コンゴで近々起こると目されている大きな動乱が実は結び付いていて、そこに「リンガラ・コード」という暗号が絡んでくる、となる。

姫: その辺りの事情を説明せずに、本筋とはほとんど関係ない朝鮮戦争の思い出を語ったり、暗号作成時の秘話を延々語ったりした結果、序盤のリーダビリティーが著しく落ちているのよね。というのも、この物語は「ある程度事情を知っていて、なおかつ現地のものしか知りえない詳しい情報を知りたい」友人に宛てて書かれた(という設定)ものだから。大筋の説明よりも、周辺情報を埋める方にやや力が入るのも必然かしら。

咲: その辺の不思議な設定は、作者のこだわりとしては必要不可欠なんだろうけれど、作劇上の要素としては、バランスを欠くものでしかないというのが厳しい。

姫: さておき、舞台がコンゴというのがまず珍しいでしょ。飛行機で移動するシーンが多い作品ということもあって、作者はサバンナの雄大な景色を上空から描写する機会を有効に活用しているわ。あと、コンゴの現地住民との接触についても積極的に書いていて、1960年代初頭の、混沌としたアフリカを捉えようとする視点は確かだと思うわ

咲: そういう同時代的/文学的な部分が、エドガー賞としては評価したいところなのだろうけれど。ちなみにミステリとして見たときには、序盤の乱脈ぶりを除けば、決して悪い出来ではない。ただ一つね……

姫: 咲口君が気にしているのは、ラストのアレでしょうね。

咲: まー、そうです。瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』でこの作品は、「フィニッシング・ストローク」の一点に関してだけ言及されています。そこでは「二番煎じ」の一言で切って捨てられているんだけど。実際、同様の事例を前と後で一つずつは思いつくけれど、ネタバレなのでタイトルはカット。ただ、やはり後の方ほどの物語的必然性は薄いかな。

姫: さきほどもアフリカの混沌という点で触れたけれど、やはり60年代(を終えての70年代初頭)という時代を書きたいという欲求から生まれてきたトリックだと思うわ。丁寧に読み返せば、伏線らしきものも見えてくるかもしれない。でも、やはりやり口があまり洗練されていないのは弱い。

咲: 結局「同時代性」の枠を超えられていないという点でも、エンターテインメントとしては苦しいかな。フォーサイスの翌年に受賞させる作品には力不足かと。


○今回の結論

姫: ということで、今回は「同時代性と超時代性」がたまたま共通テーマになったわね。

咲: 書き始めた瞬間はなにも考えていない中の人にしては上出来ではないだろうか。

姫: 自分褒めはその辺にしておきましょう。えーと、次回はトニイ・ヒラーマン『死者の舞踏場』ジョン・クリアリー『法王の身代金』の予定ね。

咲: 二作読み切れるか一作で力尽きるかはなんとも言えないところですが、頑張りましょう。

(第十四回:了)

第十三回:マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『笑う警官』(角川文庫)

○唯一無二の受賞作

咲: 第十三回目です。ユダ的な意味で、そろそろ裏切り者が出るかも分からんね。

姫: 一クール終わったところで、ライターが数少ない読者を裏切るってことですか?

咲: うう、それは割とリアルなジョーク。まあ、まだまだ三分の一も来てないことだし、エドガー賞攻略作戦はまだまだ続くよ!

姫: 打ち切りテンプレっぽい文言やめ! そういって本当に第一部完してしまった連載を私たちは知っているはずよ。(チラ

咲: 徹は踏みたくないですし、飽きられる前に本編に入りましょうか。今回は、北欧警察ミステリの草分け的存在、シューヴァル&ヴァールー『笑う警官』(1968)です。


笑う警官 (角川文庫 赤 520-2)

笑う警官 (角川文庫 赤 520-2)

姫: 佐々木譲に同じタイトルの作品があるわね。アレは、元々は『うたう警官』で、文庫化の際に改題したという顛末があるのだけれど。

咲: シューヴァル&ヴァールーは詩人とジャーナリストの夫婦作家。この二人がコンビを組んで執筆した「マルティン・ベックシリーズ」は、1965年の『ロゼアンナ』から10年間で全10巻を刊行(『笑う警官』は第四作)。翻訳も続々と紹介されて、英米で一大ムーヴメントを引き起こした。なにしろ英米のミステリシーンで、非欧米系のミステリが持て囃されるというのが非常に珍しい。

姫: 本国の層が厚いだけに、他言語作品の翻訳については非常に弱いものね。実際、60年近い歴史を誇るエドガー賞最優秀長編賞の中に、非英語圏の作品はこの『笑う警官』しかない。2012年は東野圭吾容疑者Xの献身がショートリストに残って、エドガー賞を受賞するかもしれない……と一瞬騒がれたけれど、結局なし。桐野夏生『OUT』が候補作になったのは何年前だったかしら。

咲: そのくらい分厚い壁を越えて受賞した作品が面白くない訳がないけれど、実際読んでみて色々と感心した部分があった。その点については、のちほど。

姫: まずはあらすじを紹介して頂戴な。はいどうぞ。

咲: ストックホルムの街外れの荷役場に、バスが突っ込んだ。到着した警察官がバスの中に踏み込むとそこにあったのは折り重なった人々の死体。運転手や乗客たちは皆、軽機関銃の乱射によって命を奪われたのだった。そしてその死体の中には、マルティン・べックの部下も含まれていた。

姫: まだ若く、これからの活躍が期待されていたステンストラム刑事の死は、警察署に暗い影を落とす。その後の捜査で犠牲者たちは、偶然このバスに乗り合わせたに過ぎないらしいことが判明。頭のおかしな犯人が無差別に機関銃を乱射したという説が捜査の主流を形成していく中、ベックたちはある奇妙な事実の連なりに新たな意味を見出して行く。

○人間心理を掘り下げること

咲: さて、この『笑う警官』はさっきも説明した通り「マルティン・ベックシリーズ」の第四作にあたる。実は順番に読むのが面倒だったので、この作品を一冊だけ読んでこの場に臨んでいるのだが、それってやっぱり駄目だったのかな。ステンストルム刑事がどうこう、と言われてもピンとこないまま読み進めてしまったよ。

姫: 実際のところ、ステンストルム刑事は『ロゼアンナ』『蒸発した男』『バルコニーの男』の三作品ではほとんど活躍していない。それどころか『バルコニーの男』の事件では、作中リゾート地で休暇を取っている、という説明が出るだけで出番は一切ないのよ。だから、前三作を読んでキャラクター理解が深まるか、というとそれは疑問ね。ただし、その「これまで一切活躍していない」という彼のパーソナリティを掘り下げることが、この作品を単純な捜査小説から一段高みへと引き上げる一因になっているとは思うのよ。

咲: ステンストルム刑事が、職場のデスクの中に「自分」にまつわるものを何ひとつ入れていないという点は、非常に示唆的だと思う。当然のことながら、人間は場所場所で違う顔を見せるものだけど、彼の場合はそれが異常に特化している。同僚の刑事たちは、よくよく考えてもステンストルムが一体いかなる人物だったかということを説明できない。彼女と同棲していたらしいことは知っていても、その名前も顔も知らない。読者と同じ、知識ゼロの地点からスタートしなければならないんだ。

姫: この無差別銃殺事件?の捜査本部は、犯人の謎を追うとともに、十数年前の未解決事件について、他の刑事たちに隠れて捜査を進めていたらしいステンストルムの謎も解き明かさなければならない。この二つの謎は、実は表裏一体になっていているということは、ある程度ミステリを読みなれている人には察しが付くかしら。

咲: ベックに憧れに近い気持ちを抱き、彼の捜査法を意図的にコピーしていたステンストルムという一個の人間について、そのべック自身(=読者)が読み解いて行く中で気づかされることもある。非常に深いよな、この作品は。


○運命の車輪を回して

姫: そういう物語としての深さに加えて、この『笑う警官』は、内容が緊密であるという点で他の作品を圧倒していると思うの。伏線の回収が巧いというかね。単純に謎解きのピースを拾ってくるのが巧いというだけじゃなくて、物語の必要なところでそれ以前に書かれた内容を浮かび上がらせるのが上手いというか。

咲: どうしてこう、語るのが異常に難しいポイントを拾ってくるかなあ。話の作りが緊密というのは分かる。というよりも、物語の作りに最初から最後まで一貫性があるという方が的確か。例えば作品の最初の部分にある刑事の独白がポツンと置かれているのだけど、最初読んだ時はどうしてこんなところにこんなものがあるのか分からない。でも最後まで読んで改めてこのページを見返してみると、「この物語を理解するための部品」が全部このわずか二ページに仕込まれていたことが分かる。章を動かす小さな歯車と物語を動かす大きな歯車が、ピタリと噛み合って回っている。

姫: そうね。シューヴァル&ヴァールーの「小説家としての地力」についてなら、もうひとつあげたい例がシリーズ第二作の『蒸発した男』にあるわ。作者は「人魚」のモチーフを第一章で、しかもまったく関係ない事件についてただ一度だけ記しているのだけど、この作品で扱われる「身分を変えてスウェーデンに入国した男が、再び姿を消してしまう」という事件は、ちょっと「人魚姫」を連想させる。ちなみに、この作品の原題を直訳すると「煙/泡になって消えた男」なのだけど、この「泡になって消える」というフレーズは当然「人魚姫」に繋がっていく。

咲: 詩的だね。

姫: こういう事例を積み上げた先に、なかば必然的に真実が見えてくる。ベックはいい刑事だけど、別に名探偵という訳ではないから「謎を解く」ことはしない。物語の必然、いいえむしろ運命として「謎は解ける」もので、ベックは運命の車輪の道筋を、証拠を元に的確に辿っていくことが出来る。その車輪が(いかなる形でも)ゴールに到着したのを見届けるのが彼の役割と言える。

咲: 笑えるほどに感傷的になってしまったな。そういう物語の作り方って、警察小説としてはよくあるものなんだけど、でもこの『笑う警官』は、すべてが過不足なくピタリとはまっている。恐ろしく完成度が高い、必読の一冊だ。

○さて次回

姫: ひとしきり感動したので落ち着きました。えーと、次回はフレデリック・フォーサイスジャッカルの日』(1971)です。

咲: これがまたどこにもなくて往生したよ。同じく角川文庫の『オデッサ・ファイル』はいくらでもあるのにね。なんでだろ。陰謀か。

姫: 課題図書がエスピオナージュだからって、何でもかんでも陰謀に結び付けるのは止めなさい!

(第十三回:終了)


笑う警官 (ハルキ文庫)

笑う警官 (ハルキ文庫)

容疑者Xの献身 (文春文庫)

容疑者Xの献身 (文春文庫)

第十二回:ディック・フランシス『罰金』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

○渡る世間は馬ばかり?

咲: 第十二回です。ディック・フランシスと言えば、「競馬シリーズ」で有名な冒険小説の大家のはずなんだけど、この作品、なんだか少し変じゃないか? なんというか……

姫: その点については、後半で語って頂戴な。さて、今回取り上げるのは、フランシスの第八作。はじめてエドガー賞を受賞した『罰金』(1968)です。競馬シリーズでは、競馬にまつわる様々な立場の人が主人公になるけれど、今回は、新聞のスポーツ面で競馬記事を担当している専属の新聞記者、ジェイムズを中心に据えています。

罰金 (1977年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

罰金 (1977年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

咲: ディック・フランシスが作る主人公はごく普通の人間なんだけど、必ずどこかに弱点を抱えている、というのが通例。たとえば『大穴』で初出馬し、『利腕』『敵手』(この二作品はエドガー賞受賞作なので、今後本連載で登場予定)でも主人公を張ったシッド・ハレーは、騎手時代に負った怪我を引きずっている。今回のジェイムズの場合には、妻のエリザベスが灰白脊髄炎を患い全身麻痺に陥っているのが、大きなポイント。

姫: 全身麻痺といっても、喋ることは出来るという都合のいい設定には目をつぶるとしても、ね。物語は先輩の競馬記者、バート・チェコフが突然の墜落死を遂げたところから始まります。ではよろしく。

咲: 「忠告する」「やつらは、まず金をくれて、後は脅迫する」「売るなよ、自分の記事を金にするな」と口にした直後、酔っ払い記者バート・チェコフは死んだ。彼の言葉を不審に思ったジェイムズは、バートが過去に書いた記事を見直すうち、彼が白星間違いなしと評価した馬が出場を取り消していることがあまりにも多いことに気がつく。

姫: もし、ダフ屋で事前に馬券を購入していたなら、出場しなかったとしても当然返金されることはない。もしかして、ここには何らかの陰謀があるのでは? ジェイムズはバートの最新記事で書かれたレースの出場馬について改めて調査を始めるが、競馬界の裏に食い込んだ強大な敵は一筋縄ではいかない相手だった。

咲: という話。フランシスは究極のワンパターン作家で、どの作品を読んでも、骨子になる部分はほぼ同じなんだよなあ。主人公は、なんら特別なところのない男で、でも頑固者で自分の仕事に誇りを持っている、さっきも言ったけど必ずなんらかの弱点を抱えている、競馬界の裏に食い込んだ敵と戦う、といった具合。全部読んだ訳じゃないけれど、この黄金パターンを守りつつ、50作近い作品のほとんど全部で平均点以上のものを書ける、というのは確かに偉大。

姫: ある意味では、ワンパターンゆえに、安心して物語にのめり込んで行けるというのはあるでしょうね。それこそ渡る世間は鬼ばかりのように。うちのお母さんしょっちゅう再放送見ているわ。

咲: 比べるかね、その二者を。


○三つの顔を持つ男?

姫: こほん。さておき、物語の中盤まではジェイムズはひたすら調査にまい進、過去に出場取消した馬の馬主が脅迫を受けていたらしいことを突き止めます。こうなれば、バートが最後に絶賛した馬の持ち主も危ない。馬主の女性を脅迫者の魔の手から守ることも大事ですが、馬自体が襲われては元も子もない。隠蔽のためによその農場の馬房に移すなど、様々な工作を弄していきます。

咲: 犯人が実際にジェイムズに忍び寄ってくるのは、物語も半ばを過ぎたあたりから。ちょっと痛めつけられたくらいじゃ口を割らないジェイムズだけど、奥さんについて仄めかされると弱い。馬の隠し場所をぺらぺらと話してしまう。脅迫者には屈しないって偉そうに言ってたわりには、二枚腰というかダブル・スタンダードというか、ちょっと情けない。

姫: 何言ってるの。仕事上の話と、私生活の間には大きな溝があるでしょうに。むしろ「妻を殺すだと。やってみやがれ」みたいなことを言い出す人は完全に頭がおかしい。ジェイムズはあくまでも「一般人」の判断の範疇で正しい選択をしている、と考えるべきではないかしら。それに、犯人が出ていった直後に「馬を別のところに急いで移してくれ」という連絡を入れて、フォローしているんだから許せる。

咲: まあ、そうな。愛はすべてを救うよな。でも……いや、もういいだろ、その話をしよう。

姫: はいはい。ここまでは言及しなかったけれど、ジェイムズには奥さんに大きな負い目があります。実は彼は不倫をしているんです。現在の相手はなんと馬主の女性。初めて会いに行った時に誘われて道を踏み外して以来、暇さえあればイイ体だイイ女だ呟いているのよね。奥さんはもう長いこと全身不随なので、セックスレスになっているとは言え、ゴミクズ感甚だしい。

咲: 「奥さんについて仄めかす」というのも、「奥さんに不倫の事実を突き付けられたくなかったら言った方がいいぜ」だからな……いや、のちには自宅を突き止められて、奥さんの命と引き換えに真実の情報を口にせざるを得なくなったりする訳だが。

姫: 驚きというか、ちょっと衝撃だったのは奥さんが不倫を許してくれること。もちろん最初は主人公に嫌悪感を抱くんだけど、だんだん聖母化していって、最後には「(主治医に聞いたんだけど)男の人にはセックスが必要なのよね……あなたには自由になってほしい、その方が私をずっと愛することになるから」とか言うし。

咲: もう言っちゃうけどさ。最後の一行が酷いよ。身の処し方を反省した主人公は、まるで真実の愛を手放すかのような態度で馬主の女と一度切れる。そして、奥さんが不倫許可を出して、「幸福そうに笑っ」たのを見て「彼女のことをなお一層愛した」と書く。これで終わりだろ。ハッピーエンドじゃん。それが最終ページの最後から三行目なんだよ。そこからもう全文引くけど。

「火曜日の朝、ミセス・ウッドワードがくると、私は路地に出て角を曲がり、公衆電話のボックスに入って、ウェスタン美術学校に電話をかけた」

姫: 未読者には意味不明だと思うので補足すると、ウッドワード夫人は奥さんの日中の世話人です。そして、「火曜日の朝に美術学校に電話する」というのは密会の約束を取り付けるためのルーティンなんです。「私を愛してくれれば、他の女とやってもいいわ」と言われた途端にコレ……「男は肉欲を我慢できない」ってことね! そこまで、馬を守るために必死に工夫したり、無理矢理アルコールを大量摂取させられて、急性アルコール中毒で倒れかかっているのに、奥さんを敵の眼のとどかない場所に逃がすために奮闘したりする胸が熱くなる展開を、完全に無にされた思いだったわ。

咲:一人の男の中にある「強大な悪にすら立ち向かう頑固な『強さ』」と「一番大事なもののためなら、信念を投げだすことを辞さない『弱さ』」のふたつを、同じ根っこから生やして、かつ書き分けているのは見事だが、そこに「なにはともあれセックスがあるなら嬉しい『弱すぎる』男」の面まで付けてしまうのは酷い。このオチはちょっとあり得ないだろ。


○私たちはフランシスを見捨てない

姫: ううう、辛いけど総評言うわね。『罰金』はフランシスの黄金パターンに綺麗に乗っかっていて、「強い悪に立ち向かう、弱いけれど頑固に正義を貫く男」の孤独な戦いを波乱万丈で描いています。ただし、主人公の一部言動が、不自然なまでに「不倫」という要素に集められており、作品全体のバランスを大きく欠いているのはマイナスです。

咲: フランシスの実力は分かるんだけど、何故敢えてこの作品にエドガー賞を与えなければならないか良く分からないんだよなあ。全身麻痺の妻を持つ男の当然の情動なのか? それをきっちり描いているところが評価されたのか?

姫: 少なくとも私たちには、その点は評価不能でした。

咲: まあ、忘れよう。次に取り上げる時には、フランシスももっと大きくなって帰ってきてくれるはずさ。

姫: そうね。えーと、次回はマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『笑う警官』です。

咲: オールタイムベスト級の作品来たわー。まだ読んでないけど、きっと傑作。

姫: それについては、また来週ということで。

(第十二回:終了)

渡る世間は鬼ばかり公式完全ガイド―岡倉さん家の人生いろいろ

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失楽園〈上〉 (角川文庫)

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