深海通信 はてなブログ版

三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

【未訳作品紹介】アンドリュー・ウィルソン A Talent for Murder (2017)

 アガサ・クリスティーの名を知らないミステリファンは恐らくいないだろうし、仮にミステリファンでなかったとしてもそして誰もいなくなったアクロイド殺しといった作品に何らかの形で触れたことのある人は多いと思われる。(最近日本人キャストで映画化・ドラマ化されたしね)

 そんなアガサ・クリスティーの人生には未だ解き明かされていない謎がある。1926年12月3日、その年アクロイド殺しを刊行して大絶賛と、そして同じくらいの批判を浴びた彼女が突如失踪。彼女の生死の状況は不明のまま、事態は国中を巻き込む大騒動となり、自殺・事故・殺人・誘拐・あるいはただの家出、と議論が百出した。11日後、彼女は北イングランドのヨークシャーで鉱泉ホテルに泊っているところを発見されたが、なんと失踪中の記憶を失っていた。

 最愛の母親の死、自著に押し寄せた数々の批難、夫の不倫発覚。ごく短い期間に次々に訪れた試練に押し潰されてしまったというのが衆目の一致するところだが、クリスティーが自伝でこの「失踪事件」を黙殺したこともあり、「何か秘密があるのでは」と逆に多くの作家・研究者の興味を掻き立ててきた。この「事件」については多くの小説・評論が書かれてきたが、つい昨年、一石を投じる作品が出版された。それが今回紹介するアンドリュー・ウィルソンA Talent for Murder である。

 ちなみにアンドリュー・ウィルソンは、パトリシア・ハイスミスの伝記 Beautiful Shadow (2003) でエドガー賞の評論・評伝賞を受賞し(河出書房新社さん、翻訳頼みます!)、自分でもハイスミス風の小説『嘘をつく舌』(2007)を書いてしまったジャーナリスト。粘り強い取材で優れた伝記・評伝を書くことに定評のある作家で、 A Talent for Murder は小説第二作に当たる。

A Talent for Murder (English Edition)

A Talent for Murder (English Edition)

 

 

 長々とした前置きになったが、そろそろ本編の紹介に入ろう。1ページに出てくるのが「編者のノート」である。本書の編者で登場人物の一人であるジョン・ダヴィソンが成り立ちを説明するという内容だが、実際この時点で本書の胡散臭さはメーターを振り切ってしまう。枠物語の形式を用いて、現実と虚構の狭間に霧をかけていく作者の手法は、ありきたりとも言えるがそれだけに効力を発揮している。

 さて第一章だ。1926年12月1日、ロンドンで地下鉄を待っていたアガサは、誰かに突き飛ばされて線路に落ちかける。危ういところで彼女を救ったのはクルスという若い医者だった。彼女のファンだというその男は最新作アクロイド殺しを褒め称え、その素晴らしさは作者自身が「殺人者の天性」を持ち合わせている故だと語る。そして畳みかけるように、夫のクリスティー中佐の不倫を世間に暴露されたくなければ、あることをしてほしいと脅迫する。金が欲しいのかと尋ねるアガサにクルスはこう答える。

「いささか不躾に感じるかもしれませんが、きっと貴女も興味を持って下さるはずだと信じています」

「貴方は一体何の話をしているのかしら?」

「クリスティー夫人、貴女には殺人をしていただきます。そうそう、その前に一旦失踪していただくことにしましょうか」 (第一章)

 そんなことはできるはずもないと怯えるアガサだったが、クルスはもし断るならば夫の不倫の暴露に加えて彼女の娘ロザリンドがどうなるか分からないぞ、と圧力をかけてくる。やむなくクルスの脅迫を受け入れたアガサは、誰にも何も告げないまま12月3日の深夜に「失踪」を遂げるのだった。以降、クルスの指示でヨークシャーのホテルに待機するアガサの視点を軸にして、警察の捜査(クリスティー中佐を殺人者と疑うケンワード警視が中心)とジャーナリスト志望の素人探偵ユナ・クロウの無茶苦茶体当たり調査が絡まり合いながら物語が進んでいく。

 クルスは作家志望でもありアガサを強く私淑しているが、同時に彼女を「自分が紡いだ物語の登場人物」として扱い、完全犯罪を成し遂げさせようとする。それに対してアガサは何とか「クルスが既に書いた物語」から脱出して一発逆転を仕掛けようとする。さらにここにもう一人重要な人物の意図が絡み、物語のボルテージが一気に高まっていく。

 断片的な歴史的事実とサスペンスフルな虚構とを巧みに組み合わせた本作はそこそこ長め(PBで350ページ程度)だが、私程度の読解力でもこの三日で280ページ近く読めたことも示す通り非常にリーダビリティが高く、英語も難しくない。終盤の展開にはもちろんワクワクさせられたが、巻末に付された「好事家のためのノート」で明らかになる衝撃的な事実を前にしてはもはや何も言えない。「編者のノート」のあれはそういうことだったのかと膝を打つこと間違いなし。アンドリュー・ウィルソン、恐ろしい作家……必読の傑作です。翻訳されたら是非読んでください。

 

追記:本書の続編が既に書かれている。その A Different Kind of Evil (2018) は、「失踪事件後、『青列車の秘密』を書きあげたクリスティーが気晴らしのためにカナリア諸島に向かう船旅を舞台にした作品」で、「クリスティー自身による作品を思わせる企みに満ちたプロットが素晴らしい」「本年度でも屈指の謎解きミステリの逸品」との評価を受けている。読んだら感想を書きます。

A Different Kind of Evil (Agatha Christie 2)

A Different Kind of Evil (Agatha Christie 2)

 

 

参考:今回のテーマに関係する本を何冊か上げておきます。

アガサ 愛の失踪事件 (文春文庫)

アガサ 愛の失踪事件 (文春文庫)

 

 映画化もされた小説。ウィルソンの本を読んだ後、さらっと通読したが流石に格が違いすぎた。夏樹静子の訳は前半はやや硬いがページが進むとこなれてくる。

なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?―七十年後に明かされた真実

なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?―七十年後に明かされた真実

 

 真面目な評伝。俗説を排して事実に基づいた調査を心がけている。アンドリュー・ウィルソンも本書を参考にした旨を謝辞に述べている。

嘘をつく舌 (ランダムハウス講談社文庫)

嘘をつく舌 (ランダムハウス講談社文庫)

 

 ウィルソンの小説第一作。ヴェネツィアを舞台に老作家の過去を探る若者……というハイスミス的な雰囲気と、自分とハイスミスの(実際に会ったことはないそうですが)関係をなぞったような内容がうまくかみ合った良作。今からでも読む価値あり。

皆川博子未収録短編読書まとめ③

ということで二つ戻って今回は第三回となります。実質第四回ですが。そしていつの間にやら皆川博子の辺境薔薇館』の発売日はもう明日に迫っております。早く読みたいような、この集中連載が終わるまでは待って欲しいような……

 

11.「ガラス玉遊戯」……「別冊婦人公論」1983年7月号

ビー玉を川に一つ、二つ、落とすとポツリポツリと沈んでいく……そんなひどく静かで不気味な風景を通奏低音に描かれるのは、ピンク映画の監督との不倫に、所在なげに溺れていく主婦の姿。人間は恐ろしく簡単に死んでしまう存在だが、死に極限まで近付くと、体の中にあった筈のものがなくなってしまうようだった……夢と現の間と往還する虚無的な物語の中でただ一つ、ビー玉の入った袋を川に叩きつけバシャリと大きな音を立てた「大いなる終わり」の存在が印象深いです。

 

12.「サマー・キャンプ」……「小説宝石」1983年8月号

女子キリスト教協会JCCの主催するサマー・キャンプに指導役として参加した天沢奈津子は、突然燃え上がった身の内の炎に喜びと恐れを同時に抱いていた。同棲相手との間にできた子供が死産し、帝王切開して以来、男との付き合いはひどく索莫としたものでしかなかったのに。子宮の中で、私の身の内に響く鼓動を、脈流を、轟音を聞いた者は後にも先にもあの子供ただ一人、今は小さな耳の骨だけが残って……作品としての出来はさほどではありませんが、小さな小さなモチーフが妙に印象に残ります。

 

13.「アニマル・パーティ」……「小説宝石」1983年11月号

「金になる写真を撮りたければ、あの子を撮るんだね」というバーのママの言葉に導かれるまま、リサの家を訪れた藍野とマキは、彼女とペットのコリー犬との異様なじゃれ合いを目にして衝撃を受ける。時を同じくして彼らが出会った新進のシナリオライター村上圭子の虚無的な眼差しを、マキは自然とリサに結びつけていた……死にも漸近するアモラルな性のあり方を描いても巧い皆川博子ですが、この作品は正直今一つ。さらにもう一歩踏み込んだ作品ということで、「黒と白の遺書」皆川博子コレクション3所収)を強く推奨する次第。

 

14.「夜明け」……「月刊カドカワ1984年12月号

皆川博子がクリスマスストーリー!?という意外性はあるが、冒頭から世阿弥を引用する辺り、今様の作品でも手加減は一切なし。別居している夫が娘を連れ去りクリスマスの街に消えた。それを追いながら気もそぞろな「わたし」の前に現れた初老の男は、私に不思議な言葉を投げかける。「爪嘴が伸びただろう」……どこまでが現実でどこからが虚構なのか、みるみる分からなくなる不思議なショートストーリー。

 

15.「CFの女」……「別冊小説宝石」1985年9月号

新幹線に乗って北へ向かっていた主人公の前に現れたのは、もう十何年も前にバリ島で出会い、ひと夏のアヴァンチュールとしけこんだ女性、のようだった。いまでは旅行評論家として名を知られ、ちょっとしたコマーシャル・フィルムにも出演している彼女だが、どうやら自分のことは忘れてしまったらしい。

ここに来て意外にも(失礼!)ミステリ短編が飛び出してきました。自分の過去を断片的に語る主人公が、あることをきっかけに謎が解いた瞬間浮かび上がる思考のベクトルこそミステリ。まさかこんな作品が読めるとは、未収録短編集めも悪くありませんね。

皆川博子未収録短編読書まとめ⑤

はい。⑤です。③と④でやるはずだったコピー用紙の束を職場のロッカーに突っ込んだまま忘れてきたので、⑤でやるはずだった短編を先に紹介します。都合により六篇。一篇ごとの分量もやや少なめに。

 

21.「赤い砂漠」……「毎日新聞 夕刊」1987年8月20日

もしあの時ナイフを持っていなかったら……そんな感情に突然襲われたメイク係の「私」が見守るのは映画撮影。「夏休み映画大会」を訪れる人々の様子を収録する傍ら、私は子供の頃好きだった祖母のことを、そして祖母をいじめ殺した実の母のことを急激に思い出す。そう、あの時も野外映画場のスクリーンの裏側に隠れて、左右が逆になった世界を見つめていたっけ。確かめてはいけない、でも確かめずにはいられない。裏返しの世界に待つ者は……

②で紹介した「赤姫」に続く、新聞掲載作品です。これをいきなり読まされた読者はあっけにとられた事でしょうね。皆川博子お得意のアレがまたしても炸裂し、幻妖な世界に引っ張り込まれてしまいます。

 

22.「亀裂」……「小説WOO」1987年9月号

劇団「海賊船」を四人で結成したのはもう何年前のことか。男女二人ずつだったメンバーは現在はそれぞれ結婚して二組の夫婦となり、もはや演劇とは無関係な人生を送っていた。主人公の夏子の夫、喬は今能面を彫るのを趣味にしている。入念に彫り進め、何度も何度も漆や胡粉を塗り重ね、そして完成の暁には無慈悲に叩き割る。その度、夏子の胸元に小さな鱗が一枚生えてくるのだ……夢と現の境界線に入り始めた、いや最初からあったのかもしれない「亀裂」を描く力作です。

 

23.「紡ぎ歌」……「小説現代」1987年9月号

本編は、近所で暮らしている親戚同士の家を繋ぐ電話の会話によってそのほとんどが構成された物語です。視点人物の麻子は血の繋がらない叔母知子の家に電話をかけ、毒を一滴ずつ滴らせるように、悪意を持って思い出話を綴っていきます。果たして電話の相手は従姉妹の牧子か、あるいは電話を代わったふりをした知子なのか……胴体はゴマ粒ほどの大きさの蜘蛛が麻子の繰るページを駆け抜け、文字を紡いでいく描写が戦慄を誘う不気味な作品。

 

24.「雪笛」……「ミセス」1988年1月号

25.「月光」……「ミセス」1988年2月号

26.「花影」……「ミセス」1988年3月号

「ミセス」は言わずと知れた伝統ある女性誌ですが、当時は現在よりも対象年齢層が若く、30代の既婚女性だったようです(現在は40代~50代、らしいよ)。この三連作は(言わずと知れた)「雪月花」をテーマに、大きくイラストを刷り込んで展開された作品で、正直再録は難しいと思います(かなりイメージが変わる)。

謎の洋館を訪れた女性が「殺された」と自称する少女と出会い、夢幻の世界に誘われる「雪笛」、西條八十トミノの地獄」の最後の二行(作中引用される本では塗りつぶされて読めない)に秘められた深い感情を三姉妹の生霊が召喚する「月光」、そして、主人公が少年時代に疎開のため訪れた田舎町で出会った美しい少女と今を盛りと花開く桃の林の幻想的な描写が図抜けた「花影」。いずれもごく短い作品ですが、ムードがあって大変面白いです。

皆川博子未収録短編読書まとめ②

昨日に引き続き、今日も皆川博子の未収録短編を読んでいきます。『辺境薔薇館』発売日には間に合わないにしても、それほど長引かせず終わらせたいショート企画ですが如何に……

 

6.冬虫夏草……「婦人公論」1979年12月増刊号

疎開先での縁から病院を退院した志麻子と一緒に暮らし始めた悠子でしたが、何かに寄りかからずには生きて行かれない彼女に辟易しつつも突き放すことができないでいました。男を気軽に連れ込んでは子供を産みたがり、悠子を困らせる志麻子。そんな彼女が、捨てられていた赤子を拾ってきてしまったことから大きく事態は動き始めます。

冬虫夏草と言えば蛾の幼虫に寄生するキノコの一種ですが、本作に登場する志麻子もまた悠子に寄生して生きている存在であると言えます。ところが二人の関係は寄生から共依存、そしてさらに歪んだ関係へと変化していくのでした。少し長めで読みごたえのある作品ですが、読んでいる途中はもう辛くて「早く終わってくれ」と思わずにいられなかった。凄絶な読み味の良作。

 

7.「沼」……「別冊小説宝石」1980年5月号

私には生まれなかった双子の弟がいる。それにしても弟はどこに行ったのだろう。母の子宮の中で消えてしまったのだろうか。あるいは……母の葬儀の帰り、喪服姿で居心地は悪かったもののふと入った喫茶店で出会った同年輩の男。もしかしてあれは私の弟なのかもしれない……

「沼」とは弟を魚に、そして母親をその住処に例えた「私」なりの言葉ですが、「私」と不仲な「母」の間に存在した確執と歪んだ愛の形をも呑みこんだ、深い表現であると思います。真夏の怪談めいた物語はある実に不愉快な一点に集約されるのですが、あるいはそれは私が男であるからこそ不愉快に見えるのかもしれません。

 

8.「致死量の夢」……「別冊婦人公論」1980年7月号

最近落ちていく夢を頻繁に見るようだ。それは夢というよりも、ふと身体の中に沸き起こる感覚のようなものかもしれない。街を歩いていて急にそんな気分になるのだから。振り向けばあるいは自分を突き落とした犯人が分かるかもしれない。だが、そんな事は怖くてできない。ただ、落ちていくしかないのだ。

集合住宅の中で囁かれる噂を媒介に紡がれていく物語は、究極的にある一室に集約されていきます。語り手の迪子が出会ってしまった「運命の女」はある一つの愛のために生き、今は死にながら生きている存在でした。現実との間に付けた折り合いを互いに引きちぎりあい、ともに墜ちていく女たち。枚数は少ないですが、恐ろしい作品です。

 

9.「雪の下の殺意」……「小説宝石」1981年5月号

天井からぶら下げた生肉がテラテラと光り、そして腐り落ちていくのをただ静かに見守る友江は既に壊れてしまっていた。果たして七年前に雪祭りの街で何があったのか。薄皮を一枚一枚剥ぐように少しずつ明らかにされていく、雪とは対比的にどこか生温かな真実は、まるで腐りかけた生肉のようで不快で吐き気を催すものなのですが、いつしか読者も友江と一緒に呆けたようにそれを見守るだけになるでしょう。

 

10.「赤姫」……「信濃毎日新聞」1981年11月21日号

地方新聞に掲載された、ごく短い作品です。芝居小屋にやってきたドサ回りの劇団の若い稼ぎ頭、珊瑚が浴場で手首を切って死んでいるところが発見されます。警察の捜査では自殺と目されますが、芝居小屋経営者の娘である語り手はそれを信じようとはせず……おや、と思った方は勘が鋭い。どうやらこの作品、皆川博子推理小説協会賞受賞作『壁-旅芝居殺人事件』(1984)と同じ土壌に芽吹いた作品のようなのです。結末はまた少し違い、そしてもう一枚どんでん返しを仕込んでやや軽い味わいになっているのですが……もしかするとこういった事情で未収録になっているのかもしれませんね。でもちょっと面白い。

皆川博子未収録短編読書まとめ①

来週の金曜日5月25日に皆川博子先生の100作目の単著、皆川博子の辺境薔薇館』河出書房新社)が刊行されるとの由。インタビューや未収録短編、また作家、評論家ら数多くの皆川博子ファンのエッセイが寄稿されるとのことです。

 

それに合わせて、皆川博子の残念ながらいまだ数多い未収録短編を一挙に読んでみようと思います。現行入手容易な(国会図書館でコピーできる)50編の情報については、以下のサイトも合わせてご覧ください。

皆川博子 単行本未収録作品書誌(参考編)」 by 戸田和光

http://www7b.biglobe.ne.jp/~tdk_tdk/minagawa.html

 

1. 「夜のアポロン……「サンジャック」1976年4月号

ごく最近存在が確認された作品です。皆川博子とヌードやセックス、車の話題がメインの男性誌というミスマッチに加え、「矢沢永吉の写真と女性作家の小説をタイアップする」という企画(しかも続かなかった)の不整合ぶりには相当の違和感がありますが、しかしそれでもなお非常に皆川博子らしい作品に仕上がっています。

場末のサーカスで、球状に組み立てられた檻の中を、時に重力に逆らいながら猛スピードで駆けまわる芸を披露する徹は、仲間たちから「アポロン」と呼ばれるようになっていた。彼に恋するショーダンサーのマユミは千秋楽の今日、タンデムでこの芸に挑む。夜八時三十分、舞台はライトアップされ、太陽神が降臨する……

スピードライダーを憧れながらも、金のない者にその道は開かれないことを知り閉塞感に苛まれている青年と、彼に恋し彼のためなら何でもしてやりたいと望む少女の行き場のない様子が球状の檻に仮託されています。彼らの胸のうちに燻る情熱が、最後の瞬間に究極的に燃え上がる、未収録なのが惜しまれる強烈な作品です。

なお、発表は『水底の祭り』『薔薇の血を流して』収録作と同時期になります。もう少し早ければ『トマト・ゲーム』に入っていたかもしれませんね。

 

2.スペシャル・メニュー」……「小説現代」1977年4月号

人口が一億人から七千人前後まで減少してしまった未来の日本を舞台に描かれる、いささかブラックなショートショート。「たとえ人口が減ろうとも文明レベルを下げるわけにはいかない」というお題目の元、エレベーターガールがレストランの受付係、そして女給へと全力疾走しながらサービスしていくという冒頭が既に面白い。「47歳だから全力疾走はキツイ」と訴えるのも妙にリアルです。

噂だけで語られる究極の美食、それはこの手の作品にはありがちなものなのですが、「人類が滅びへと導かれている理由」が明かされる結末を踏まえると、その精神の歪みに辟易させられてしまいます。こういう作品も書くのか、というのが正直な感想。

 

3.「夜、囚われて……」……「Delica」1977年7月号

コーヒーショップに務める青年と四十がらみの幻想小説家「モカさん」(モカばかり頼んで、ずっと文庫本を読んでいる)の歪んだ関係を描いた作品です。「モカさん」を殺そうとナイフを掴み飛びかかった、その拍子に真っ暗な窓から転落する……そんな夢を見た青年が目を覚ますと、そこは「モカさん」の家のベッドだった。性交渉を持った訳ではない。しかし、なし崩しに深まっていく関係の中で青年が選んだ真実の恋は……

これまた新発見短編。Delicaは女性向けの情報誌ですが、この時期ミステリ作家(小泉喜美子など)を起用して色々書かせています。国会図書館で借り出してペラペラめくりましたが、個人的には(ミステリとは関係ないですが)海野弘のデザイン論が面白かったですね。

さて、皆川博子は後年あまりにも頻繁にこの手を使っているのですが(具体的には書けない)、類似の作例としては最も早い時期の作品です。非現実的な話ではありますが、「幻想小説家」であるがゆえに「あり」という気分になってしまう不気味な作品です。

 

4.「夜のリフレーン」……「小説推理」1978年7月号

「小説推理」誌上で連載された『絵の贈り物』というアンソロジー企画の一編。吉行淳之介中田耕治藤沢周平皆川博子眉村卓田村隆一、藤原審雨、池波正太郎中山あい子多岐川恭都筑道夫戸川昌子田中小実昌佐藤愛子森村誠一谷恒生樹下太郎山田正紀河野典生赤江瀑藤本義一と、人気作家から当時の新進作家まで勢ぞろいしたこの企画は、福田隆義が描き下ろしたイラストに作家が小文を添えるという内容で、のちに単行本化されています。

皆川博子に割り当てられたのは、細身の黒人ボクサーがノックアウトされているイラスト。「姉さん」に語りかけるある女性の独言を辿った先で緩やかに恐怖が立ち上がる構成でなかなか上手い。後年『ジャムの真昼』や『絵小説』でやったことの原点を示す、作家歴の中でも重要な作品です。

(5/22追記:瀬名秀明編『送る物語Wonder』や、『冒険の森へ 傑作小説大全3』などにも再録されています)

 

5.「兎狩り」……「別冊小説宝石」1979年5月号

「兎狩りをしよう」と彼が吉本に提案したのはある冬の日のことだった。彼と吉本の関係は高校時代にまで遡る。大柄で柔道や空手をやっていて、それでいて芸術や映画、洋楽にも詳しい吉本は、一見陽気で快活なようで、その性根は残酷で臆病だった。ある日学校の水の入っていないプールで男子生徒の死体が発見される。事故ということで一旦は片付いた事件だったが、彼だけは吉本が犯人なのではと疑っていた。

吉本という、一言では言い表し難い複雑で多面的な心性を持つ男を巧みに描いた作品ですが、そこに名無しの「彼」の視線を挟み込むことでさらに描写を揺らがせています。現状への不満を暴発させる吉本の大きな体とそれを操る小柄な「彼」の対比と捩じれが見事。さらに五年後の出来事を描く結部まで飽きさせずに読ませる良作です。

 

明日はもっと本数が増えるかも。よろしくお願いします。

サバービコン(2017)

 評論家の三橋曉氏オススメの映画「サバービコン」を観てきた。本日初日。

 1959年、大都市郊外の住宅地「サバービコン」が舞台。ロッジ夫妻の家の隣に黒人のマイヤーズ一家が引っ越してきたところから物語は始まる。いや実はもっと昔から始まっていたのかもしれないが……サバービコンの住人たちは黒人の受け入れに大反対。隣家と接する辺に塀を立てる、衆を揃えて朝から晩まで黒人は出て行けと大声で威嚇する、商店で物を売らない、ゴミを投げつける……陰湿で徹底的な嫌がらせが続く中、ロッジ家でも事態が動き始めていた。

 ある晩、ロッジ家に居直り強盗が侵入。ガードナーとローズ夫妻、息子のニッキー、そしてローズの双子の姉マーガレットは全員クロロホルムで眠らされてしまう。しかし翌朝、強盗に荒らされた家の中でローズだけは目を覚ますことがなかった。クロロホルムの過剰摂取による死。ローズとマーガレットの兄ミッチはニッキーに犯人への復讐を誓うが、捜査は遅々として進まない。ようやく訪れた面通しの機会にこっそり入り込んだニッキーは、思いもよらない衝撃の展開を目にしてしまう……

 

 「サバービア」が翻訳ミステリ評論界隈でキーワード的に扱われたのは2010年頃だったと記憶する。川出正樹/霜月蒼/杉江松恋米光一成四氏の座談会録「”この町の誰かが”翻訳ミステリ好きだと信じて」「サバービアとミステリ 郊外/都市/犯罪の文学」を読んで、おおと感嘆した人も少なくないと思う。いや、そんなん知らんよという人もまた、多数いらっしゃるとは思いますが。

 その中で大きく取り上げられた参考図書の一つが、大場正明『サバービアの憂欝』。1993年に東京書籍から出版されるも、残念ながら現在は絶版。古書価も定価よりやや高。ただし著者がWEBで全文を公開しているので、読むこと自体は問題なく可能です。「1950年代以降のアメリカを知る」上では基本となる本で、かつめちゃくちゃ読みやすいので、まだ読んだことのない人は暇な時に(いままさに暇だろ、GWなんだから)アクセスしてみてください。

http://c-cross.cside2.com/html/j0000000.htm

 で、この本を敢えて取り上げるのは、「サバービコン」理解に当たってこの本がものすごく有用だからである。というか著者の大場正明氏は「サバービコン」パンフレットにも一文寄せてます。ノワール・コメディと実話が暴く偽りの楽園」というこの文章もすごく面白いので、映画を観たらぜひパンフレットも買おう。

 とまれ、この本を読んでいると、例えばマイヤーズ一家のお父さんが芝生を刈っていたり、お母さんが郵便配達人から「グッドハウス・キーピング」誌の定期購読を受け取っていたりするのを見て「うわっ、まんまじゃん」となる。そのくらいしっかりとディテールが作り込まれている。とにかく「1959年っぽい」世界を作り出すためにジョージ・クルーニーがしっかりお金を掛け心を砕いているのが分かる訳。さらに、物質的な面に加えて精神的な面でも作り込みは入念だ。たとえば、マイヤーズ一家を追いだそうとする町内会議の場には当然男しかいないのだが、そこで頻繁に口にされるのが「サバービコンは発展し続ける」「黒人はその発展を妨げる」という笑止な言説。マニフェスト・デスティニー アメリカ(白)人最高や。お前ら完全に狂ってるぞwww

 チョイ太目のお父さん役(ガードナー)に扮したマット・デイモンが会社のデスクで周りに人がいない時はずーっと握力鍛えてるとか、ローズとマーガレットの二役で出演しているジュリアン・ムーアが静かに笑うサイコパスに成り果てていく(客に洗剤入りコーヒーを自然に出す)とか色々ぶっ飛んでいるのも面白いし、ものすごく演技達者な子役ノア・ジュープ(ニッキー)が終盤追いつめられて、まるでヒッチコックの映画みたいなカット割りになって行くのも良かった。とにかくディテールがものすごく丁寧に詰められていて、それが全体にしっかり奉仕していく。良作だと思います。

 最後に一番好きなシークエンスについて。でかい身体のマット・デイモンが夜の街に向かって小さな自転車を一生懸命漕ぎながら疾走するシーンがあるのですが(なぜそんなことになったかは書けない)、そこでカメラがスッと引いて夜空とぽつぽつ灯りが付いている街を映す。一か所やけに大きな灯りがあるのですが、それはマイヤーズ家の前で大騒ぎしている馬鹿者たちを表しています。さておき、物語の最初で紹介された街の清潔な様子とは打って変わって、闇に沈んだ街の禍々しい(そして逆に美しい)ことと言ったら……みっともないマットとの対比もばっちり。アメリカの文化に興味がある人は必ず観なければならない作品です。

 

サバービアの憂鬱―アメリカン・ファミリーの光と影

サバービアの憂鬱―アメリカン・ファミリーの光と影

 
彼女が家に帰るまで (集英社文庫)

彼女が家に帰るまで (集英社文庫)

 

↑若いアメリカ人ミステリ作家でも随一の実力者が描く、「50年代後半の」「サバービアに黒人がやってきた」物語。2016年の必読書、でした。

ザ・フィフティーズ1: 1950年代アメリカの光と影 (ちくま文庫)
 

↑『サバービアの憂欝』に続く参考書。長いけど面白い。

購書読書日記(20180501)

 最近腰が痛いような気がして家の近くの整骨院を訪れるも、激混みとかで予約を入れるに留まる。整骨院なんて初めて来たので、勝手も相場もまったく分からない。お財布にいくらくらいお金を入れていけばいいのやら。

 ついでに近くの古本屋を見る。古本の強者がたまに大当たりを引いているらしいのだが、自分はその域に達していないためかこれはという本を買ったことはない。均一棚から短編集を二冊。

森村誠一『溯死水系』(光文社文庫)\108

森村誠一『空洞の怨恨』(光文社文庫)\108

森村誠一ベストセレクション」全七巻から二冊。装丁が格好いいので揃えてみようかな。

 

 最近、陳舜臣クロフツを固め読みしているが、これは完全な逃避。読みやすくかつ一定以上面白いのが約束されている作家の作品は大変ありがたい。先週来こんな本を読んでいる。

陳舜臣『青玉獅子香炉』(文春文庫)

F・W・クロフツフレンチ警部とチェインの謎』創元推理文庫

陳舜臣『怒りの菩薩』集英社文庫

F・W・クロフツ『二つの密室』創元推理文庫

 

 この中では、短編集『青玉獅子香炉』の表題作(直木賞受賞作)が一番素晴らしかった。公の歴史の裏面に隠されたもう一つの中国史。連綿と描かれる玉を愛し玉に愛された男の執念、ジワリと燃え上がる情熱が、贋作をして真作を凌駕せしめる逆転の一瞬(それはすなわち稗史が正史を超えていく瞬間でもあり……)へと到達する感動の中編。これが今他で読めないのは少しもったいない。

 クロフツはどれを読んでも面白いが、『二つの密室』はやや異色に見えて王道を行く物語。田舎のお屋敷に潜り込んだ貧乏ながらハツラツとした女アンが出会う最悪の運命は、フレンチ警部の出馬へと繋がっていく。フレンチの前に立ち塞がる二つの密室、丹念な捜査の末に明らかになる真実は……と言った話。トリック自体は初級というか拍子抜けな内容だが、それらも含めてすべてが伏線となっており、最後にピタリと平仄を合わせて意外な犯人へと到達するので文句はない。作品の構成自体も、フレンチの捜査パートの明晰さと比べるとアンの語り・認識の危うさが浮き彫りになるように仕込まれており、それがラストまで繋がっているのは非常に上手い。おすすめ。

 

二つの密室 (創元推理文庫)

二つの密室 (創元推理文庫)

 
青玉獅子香炉 (文春文庫 ち 1-4)

青玉獅子香炉 (文春文庫 ち 1-4)

 

購書読書日記(20180424)

最近ちょっと買いすぎなので記録してレコーディングダイエットする。

 

4/24(火):曇りのち雨のち曇り

 休みなので昼から神保町へ。前日ポパイの増刊号を買い、完全にカレー脳になっていたはずだが、途中の電車で「汁なし担々麵喰いてえなあ」となり、九段下の雲林坊を目指すことに決めた。普通に考えれば九段下まで行くべきなのだが、「乱数調整で少し歩こう」となる辺り、ブックオフRTA勢に毒されている。結局飯田橋で下車。ブックオフがあるので古本効率は良い、はずだ。結局文庫本を五冊購入。いきなり重いんですがそれは……

陳舜臣『夢ざめの坂 上下』講談社文庫)各\108

陳舜臣『天球は駆ける 上下』集英社文庫)各\108

陳舜臣『北京悠々館』集英社文庫)\108

 竹書房を横目に南下。雲林坊に辿り着くあたりで空模様が段々心配になる。並んで食券を買うが、自分でも気が付かないうちに普通の担々麵のボタンを押していたらしく、汁なしは次回に持ち越し。朝を食べていなかったとはいえ、大盛痺れ辛さ増しにご飯中で結構お腹いっぱいになる。

 店を出たところで雨が降り始める。雨具なぞ持っているはずがないよなあ? クソーッと毒づきながらとりあえず古書いろどりを目指す……が、ダメッ!今日はお休み……なんだこれは……乱数調整失敗しとるやないかい……悲しみに暮れ雨に打たれながら(大して降ってないしすぐ止むだろうしとビニ傘を買わない)アットワンダーへ。外の均一は当然なし……と店頭入り口に移動された棚をチェックすると、ここで古本神がリアルラックと引き換えに少しだけ微笑みを見せる。70年版世界ロマン文庫箱ありがぞろっと揃ってすべて200円(税別)……だと……未所持中心に5冊選んでお買い上げ。

ジョルジュ・シムノン『フェルショー家の兄』筑摩書房世界ロマン文庫)\216

・リチャード・ヒューズ『ジャマイカの烈風』筑摩書房世界ロマン文庫)\216

dメアリ・スチュアート『この荒々しい魔術』筑摩書房世界ロマン文庫)\216

ジェフリー・ハウスホールド『影の監視者』筑摩書房世界ロマン文庫)\216

・ギルバート・フェルプス『氷結の国』筑摩書房世界ロマン文庫)\216

 『この荒々しい魔術』はダブり買い。古本市でかつて1000円で買ったことを考えると、古本マーフィーは確実に機能している。なお、今回は帯付き。ところで『氷結の国』均一はやばくないですか。私はこの本を瀬戸川猛資のブックガイドで知りましたが、十ン年越しの発掘でとても嬉しい。ありがとう古本神。

 その後、雨も止んできたので通り沿いにぶらぶら歩いていくと澤口がまたポケミスを山のように均一(~300)で出していたのでダメ元でチェックを入れる。一冊購入。

dマーガレット・ミラー『これよりさき怪物領域』ポケミス)\300

 その後、三省堂まで歩いてチェック(何もなし)、かんたんむをチェック(何もなし)、羊頭をチェック(休み)。まあこんなものでしょう。今日神保町に来た目的は未所持カーの洗い直しなんだけど、その点は進展なし。

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 夜中に陳舜臣『炎に絵を』(文春文庫)を読む。初読。陳舜臣はこれで5冊目。不勉強で全然読んでいないのが恥ずかしい。最近固め買いしたので、集中的に読みたいところだ。

 神戸への転勤を打診されている主人公の葉村省吾が、年の離れた兄一郎から父康風の過去についての調査を引き継いでくれと頼まれるところから物語が始まる。父は中国国民党の革命資金を持ち逃げしたとされており、一部では悪名高い存在だった。物心ついてまもなく死んだ父のことはほとんど覚えていないし、家の名誉にも興味はない。それでも、病に斃れ余命幾ばくもない兄の頼みだからと神戸で調査を始めた省吾だったが、事態はどんどんきな臭くなり省吾自身もなぜか命を狙われる羽目に。

 まさにロマンシングな大傑作。自分には無関係な過去を掘り下げていくと、それが巡り巡って自分のオリジンを探ることに繋がっていく、というのはロバート・ゴダード蒼穹のかなたに』(文春文庫)にも通じるテーマだが、そこからさらにもう一段階踏み込んだのが本作(当然だが発表は本作が先行)。にもかかわらず、文庫本300ページでぴったり収めて余剰も不足もない。戦争も人間も日本も中国もなにもかも飲み込んで、ひとつの極上の読み物に仕立て上げる著者の腕力とセンスには脱帽する。

 

炎に絵を―陳舜臣推理小説ベストセレクション (集英社文庫)

炎に絵を―陳舜臣推理小説ベストセレクション (集英社文庫)

 

「私訳:クリスチアナ・ブランド短編集」について③

 昨日に続いて本日は、第二編「バンクホリデーの殺人」をご紹介。

 スキャンプトン・オン・シーに高名な映画プロデューサー、マーカス・ロームがやってきた。病後の療養のための滞在ということで派手な活動を抑えていたのは事実だが、さすがに誰にも構われないと寂しい。特に女たらしとしても有名な彼のこと、いつでも抱ける美女を侍らせておきたいところなのだ。

 いやいや、元妻に手紙で「浮気は止めるから戻ってきてくれ」と懇願したばかりではないか。自粛せねばと考えた彼のところに、ファンを自称する少女トゥッツィーが現れる。元妻が到着するまでの暇つぶしにはちょうどいいという彼の甘すぎる考えが殺人の引き金を引くことになるとは、神ならぬ彼には知る由もない。

 同日は八月のバンクホリデーだったが、スキャンプトン・オン・シーの警察署にこめかみから血を流し、真っ青になった女性サンドラが飛び込んでくる。「助けて、殺される!」 当直の警部が事情を聞くと、恋人のロナルドが銃を持ち出して彼女に暴力を振るったというのだ。その原因は映画プロデューサーのマーカス。マーカスのフラットに向かったというロナルドを追ってポート警部と部下のトルート巡査は現場に急行するが、フラットにはライフルを握ったまま立ち尽くすロナルドの姿が。サンドラは問う。「ロナルド、あなたが殺したのね?」と。

 もちろんそんな単純に事が進む訳もなく、捜査の過程で様々な矛盾が出てくる。それどころか、当日スキャンプトン・オン・シーにはマーカスの妻やその友人もやってきていた上に、彼らがマーカスのフラットに侵入していたことまで判明。果たして犯人は誰なのか。

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 クリスチアナ・ブランド流の「犯人当てミステリ」です。もちろんいつものブランド節は健在。五人の容疑者たちは良く喋りますが、息をするように嘘を吐くのですから始末に負えません。しかも、その嘘は必ずしも保身のためだけのものではないのが面倒なところ。警察署に関係者全員を集めたポート警部は、マーカスが前週末に書き送った手紙の中に犯人を絞り込むための手がかりがあると言い出すのですが……

 読者をあっと言わせるための抜け抜けとした手がかりの配置、混沌とした状況を快刀乱麻で解決する明晰なロジック、そしてシニカルな結末まで読みどころたっぷりの良作で、これまた未紹介だったことに驚かされます。ぜひご一読あれ。

 

「私訳:クリスチアナ・ブランド短編集」について②

 ということで、短編集の内容紹介に移ります。本短編集に収録しているのは以下の二編です。

・「白昼の毒殺者」 Cyanide in the Sun (1958)

・「バンクホリデーの殺人」 Bank Holiday Murder (1958)

 この二編は、「スキャンプトン・オン・シー」という海辺のリゾートタウンを共通の舞台にしています(共通する登場人物はなし)。この名前の町は地図上では見つかりませんでしたが、作中の描写からおそらくデヴォン州南部、地名で言うとトーキーやプリマス周辺が想定されていると推測できます。ブランドは「ケントの鬼コックリル警部」ものに続く新シリーズを構想していたのかもしれません。

 第一編「白昼の毒殺者」は、そのスキャンプトン・オン・シーの町で跋扈する「青酸殺人者」にまつわる物語です。物語は町の小さなホテル「リバーサイド・ゲスト・ホテル」の夕食シーンから始まります。六人の宿泊客に殺人者の凶行について語り聞かせるのはホテルの女主人ミセス・キャンプ。無差別に被害者を選んでいるとしか思えない殺人者は、毒殺する前に被害者にメッセージを送り届けると彼女は言います……「汝の死の運命に会う備えをせよ」……悪趣味なまでに真に迫った語りの毒気にあてられた六人は、怯え、また怒りながら今後の対策について浜辺で話し合っていましたが、すぐそこに小さな紙切れが落ちていることに気づきます。届けられた死のメッセージ。狙われたミセス・クルハム。果たして、神出鬼没の青酸殺人者を止めることは可能なのか?

 ミセス・キャンプしかこの町の関係者がいない以上、普通に考えれば犯人は彼女なのですが、そう単純には進みません。ブランドの目は宿泊客たちの間を飛び回り、その嘘か真か判別できない言行を読者に提示していきます。そして訪れた運命の夜……死のメッセージを受け取ったミセス・クルハムを護るために互いが互いを監視し合い、妙なことをすればすぐに分かる状況で食事が供されたにも拘わらず、彼女だけが青酸を飲まされ、死んでしまいます。おお、大胆不敵な不可能犯罪

 という内容。不可能犯罪自体の謎もそうですが、痺れるサプライズエンディングまで読者をまったく飽きさせない良作です。単純なようで謎めいた人物造形、パーティーゲーム汝は人狼なりや?」を思わせるサスペンスフルな展開も非常に面白い。これほどの作品がまだ埋もれていたとは驚かされます。

 もう一編はまた明日ご紹介します。