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深海通信 はてなブログ版

三門優祐のつれづれ翻訳ミステリ。主に新刊の話をしています。そういえば、「アントニイ・バークリー書評集製作委員会」公式ホームページ。

第十二回:ディック・フランシス『罰金』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

○渡る世間は馬ばかり?

咲: 第十二回です。ディック・フランシスと言えば、「競馬シリーズ」で有名な冒険小説の大家のはずなんだけど、この作品、なんだか少し変じゃないか? なんというか……

姫: その点については、後半で語って頂戴な。さて、今回取り上げるのは、フランシスの第八作。はじめてエドガー賞を受賞した『罰金』(1968)です。競馬シリーズでは、競馬にまつわる様々な立場の人が主人公になるけれど、今回は、新聞のスポーツ面で競馬記事を担当している専属の新聞記者、ジェイムズを中心に据えています。

罰金 (1977年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

罰金 (1977年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

咲: ディック・フランシスが作る主人公はごく普通の人間なんだけど、必ずどこかに弱点を抱えている、というのが通例。たとえば『大穴』で初出馬し、『利腕』『敵手』(この二作品はエドガー賞受賞作なので、今後本連載で登場予定)でも主人公を張ったシッド・ハレーは、騎手時代に負った怪我を引きずっている。今回のジェイムズの場合には、妻のエリザベスが灰白脊髄炎を患い全身麻痺に陥っているのが、大きなポイント。

姫: 全身麻痺といっても、喋ることは出来るという都合のいい設定には目をつぶるとしても、ね。物語は先輩の競馬記者、バート・チェコフが突然の墜落死を遂げたところから始まります。ではよろしく。

咲: 「忠告する」「やつらは、まず金をくれて、後は脅迫する」「売るなよ、自分の記事を金にするな」と口にした直後、酔っ払い記者バート・チェコフは死んだ。彼の言葉を不審に思ったジェイムズは、バートが過去に書いた記事を見直すうち、彼が白星間違いなしと評価した馬が出場を取り消していることがあまりにも多いことに気がつく。

姫: もし、ダフ屋で事前に馬券を購入していたなら、出場しなかったとしても当然返金されることはない。もしかして、ここには何らかの陰謀があるのでは? ジェイムズはバートの最新記事で書かれたレースの出場馬について改めて調査を始めるが、競馬界の裏に食い込んだ強大な敵は一筋縄ではいかない相手だった。

咲: という話。フランシスは究極のワンパターン作家で、どの作品を読んでも、骨子になる部分はほぼ同じなんだよなあ。主人公は、なんら特別なところのない男で、でも頑固者で自分の仕事に誇りを持っている、さっきも言ったけど必ずなんらかの弱点を抱えている、競馬界の裏に食い込んだ敵と戦う、といった具合。全部読んだ訳じゃないけれど、この黄金パターンを守りつつ、50作近い作品のほとんど全部で平均点以上のものを書ける、というのは確かに偉大。

姫: ある意味では、ワンパターンゆえに、安心して物語にのめり込んで行けるというのはあるでしょうね。それこそ渡る世間は鬼ばかりのように。うちのお母さんしょっちゅう再放送見ているわ。

咲: 比べるかね、その二者を。


○三つの顔を持つ男?

姫: こほん。さておき、物語の中盤まではジェイムズはひたすら調査にまい進、過去に出場取消した馬の馬主が脅迫を受けていたらしいことを突き止めます。こうなれば、バートが最後に絶賛した馬の持ち主も危ない。馬主の女性を脅迫者の魔の手から守ることも大事ですが、馬自体が襲われては元も子もない。隠蔽のためによその農場の馬房に移すなど、様々な工作を弄していきます。

咲: 犯人が実際にジェイムズに忍び寄ってくるのは、物語も半ばを過ぎたあたりから。ちょっと痛めつけられたくらいじゃ口を割らないジェイムズだけど、奥さんについて仄めかされると弱い。馬の隠し場所をぺらぺらと話してしまう。脅迫者には屈しないって偉そうに言ってたわりには、二枚腰というかダブル・スタンダードというか、ちょっと情けない。

姫: 何言ってるの。仕事上の話と、私生活の間には大きな溝があるでしょうに。むしろ「妻を殺すだと。やってみやがれ」みたいなことを言い出す人は完全に頭がおかしい。ジェイムズはあくまでも「一般人」の判断の範疇で正しい選択をしている、と考えるべきではないかしら。それに、犯人が出ていった直後に「馬を別のところに急いで移してくれ」という連絡を入れて、フォローしているんだから許せる。

咲: まあ、そうな。愛はすべてを救うよな。でも……いや、もういいだろ、その話をしよう。

姫: はいはい。ここまでは言及しなかったけれど、ジェイムズには奥さんに大きな負い目があります。実は彼は不倫をしているんです。現在の相手はなんと馬主の女性。初めて会いに行った時に誘われて道を踏み外して以来、暇さえあればイイ体だイイ女だ呟いているのよね。奥さんはもう長いこと全身不随なので、セックスレスになっているとは言え、ゴミクズ感甚だしい。

咲: 「奥さんについて仄めかす」というのも、「奥さんに不倫の事実を突き付けられたくなかったら言った方がいいぜ」だからな……いや、のちには自宅を突き止められて、奥さんの命と引き換えに真実の情報を口にせざるを得なくなったりする訳だが。

姫: 驚きというか、ちょっと衝撃だったのは奥さんが不倫を許してくれること。もちろん最初は主人公に嫌悪感を抱くんだけど、だんだん聖母化していって、最後には「(主治医に聞いたんだけど)男の人にはセックスが必要なのよね……あなたには自由になってほしい、その方が私をずっと愛することになるから」とか言うし。

咲: もう言っちゃうけどさ。最後の一行が酷いよ。身の処し方を反省した主人公は、まるで真実の愛を手放すかのような態度で馬主の女と一度切れる。そして、奥さんが不倫許可を出して、「幸福そうに笑っ」たのを見て「彼女のことをなお一層愛した」と書く。これで終わりだろ。ハッピーエンドじゃん。それが最終ページの最後から三行目なんだよ。そこからもう全文引くけど。

「火曜日の朝、ミセス・ウッドワードがくると、私は路地に出て角を曲がり、公衆電話のボックスに入って、ウェスタン美術学校に電話をかけた」

姫: 未読者には意味不明だと思うので補足すると、ウッドワード夫人は奥さんの日中の世話人です。そして、「火曜日の朝に美術学校に電話する」というのは密会の約束を取り付けるためのルーティンなんです。「私を愛してくれれば、他の女とやってもいいわ」と言われた途端にコレ……「男は肉欲を我慢できない」ってことね! そこまで、馬を守るために必死に工夫したり、無理矢理アルコールを大量摂取させられて、急性アルコール中毒で倒れかかっているのに、奥さんを敵の眼のとどかない場所に逃がすために奮闘したりする胸が熱くなる展開を、完全に無にされた思いだったわ。

咲:一人の男の中にある「強大な悪にすら立ち向かう頑固な『強さ』」と「一番大事なもののためなら、信念を投げだすことを辞さない『弱さ』」のふたつを、同じ根っこから生やして、かつ書き分けているのは見事だが、そこに「なにはともあれセックスがあるなら嬉しい『弱すぎる』男」の面まで付けてしまうのは酷い。このオチはちょっとあり得ないだろ。


○私たちはフランシスを見捨てない

姫: ううう、辛いけど総評言うわね。『罰金』はフランシスの黄金パターンに綺麗に乗っかっていて、「強い悪に立ち向かう、弱いけれど頑固に正義を貫く男」の孤独な戦いを波乱万丈で描いています。ただし、主人公の一部言動が、不自然なまでに「不倫」という要素に集められており、作品全体のバランスを大きく欠いているのはマイナスです。

咲: フランシスの実力は分かるんだけど、何故敢えてこの作品にエドガー賞を与えなければならないか良く分からないんだよなあ。全身麻痺の妻を持つ男の当然の情動なのか? それをきっちり描いているところが評価されたのか?

姫: 少なくとも私たちには、その点は評価不能でした。

咲: まあ、忘れよう。次に取り上げる時には、フランシスももっと大きくなって帰ってきてくれるはずさ。

姫: そうね。えーと、次回はマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『笑う警官』です。

咲: オールタイムベスト級の作品来たわー。まだ読んでないけど、きっと傑作。

姫: それについては、また来週ということで。

(第十二回:終了)

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