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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

第十回:ニコラス・フリーリング『雨の国の王者』(ハヤカワ・ミステリ)

○英国ミステリ隆盛の陰で泣く作家

咲: 前々から少し話していたけれど、フレムリン『夜明け前の時』(1960)から、今回取り上げる『雨の国の王者』(1966)までの8回に渡って、エドガー賞はイギリス出身の作家に占拠された状態だった。

姫: 第一回でも説明したように、デビュー長編賞に「合衆国出身作家限定」という縛りがあったためかしら。それにしても、イギリス勢が強すぎるわ。この時期、合衆国出身作家はどういう作品を書いていたのかしら。

咲: エドガー賞のHPを見ると、過去の大賞候補作がある程度見られるようになっているのでそこを参考にしてみると、ある作家の無念の歴史を辿ることが出来る。それは誰か……?

姫: うわー、これは可哀そう。ふふ、面白いのでクイズにしましょう。今回の座談の最後にその作家の名前を出しますので、ちょっと予想してみて下さい。


○全欧追いかけっこ

咲: ニコラス・フリーリングという作家は、現在ではあまり語られることがないけれど、『雨の国の王者』のほかに、同じファン・デル・ファルク警部シリーズの『バターより銃』(1963)でCWAゴールド・ダガー賞の最終候補(当時はまだ設置されていなかったので、「シルバー・ダガー賞受賞作」という惹句は誤り)に入ったりしている、当時の人気作家だったらしい。


雨の国の王者 (ハヤカワ・ミステリ 1096 ファン・デル・ファルク警部シリーズ)

雨の国の王者 (ハヤカワ・ミステリ 1096 ファン・デル・ファルク警部シリーズ)

姫: オランダを舞台にしてはいるけれど、作者本人はロンドン生まれ。幼少期はフランスで過ごし、レストランやホテルで働きながら作家デビューしたとのこと。作中で、ファン・デル・ファルクがアルベール・シモナンを読んで時間を潰したりする同時代性は、この辺りの経歴から来るのかもしれないわね。

咲: ではあらすじを……と言っても、この作品初っ端の衝撃が一つの売りになっている気がするので、ばらしてしまっていいものか、悩む。

姫: そこを抜いてのあらすじにしましょう。行ける行ける。では……

咲: アムステルダム警察のファン・デル・ファルク警部の元に奇妙な依頼が持ち込まれた。カシニウスと名乗るその男は、失踪した社長の一人息子ジャン・クロードの捜索を「個人的に」依頼したいという。おそらくは権力に近い地位にある男の前に、警察上層部も黙認を強いられる。ファン・デル・ファルクは一人支援も受けられぬまま、ドイツ、オーストリア、フランスと追いかけっこする羽目に。

姫: 彼を追う中で、ファン・デル・ファルクは次第にジャン・クロードのことを知っていく。金持ちでハンサム、スポーツや語学の豊かな才能に恵まれ、何不自由のない暮らしを送っていたジャン・クロードを理解するそのカギは、彼が書き写し、家に残して行ったというボードレールの<憂愁>という詩に隠されていた。そして、彼の隠れ家へと辿りついたファン・デル・ファルクの前に現れたのは……。

咲: という話。ファン・デル・ファルクがこの旅全体を回想し、上司に報告しているという後日談が、物語の前後に挿入されるという体になっています。

姫: この後日談がまた随分と衝撃的というか、ここではとても書けない内容なので、ぜひその点は自分で読んで確かめて欲しいと思います。ただ、裏表紙のあらすじには書いてあるので、出来るだけ見ないようにしましょう。

咲: 西欧世界を股にかけての追いかけっこはなかなか面白いね。ドイツではビールを飲みながら村祭りの騒動に巻き込まれ、オーストリアではスキーの大障害レースに巻き込まれ……ジャン・クロードのいやに色っぽい妻に誘惑されかけたり、ラストはとんでもない目に遭ったりと、警察小説というよりむしろ、どたばた私立探偵小説に近いのではないか。

姫: その点についてはファン・デル・ファルク自身が、「もし俺が私立探偵だったら、こういう状況でもっと上手いことやっているだろうけど、警察官だからなあ……」とぼやくシーンもあったりして、読者サービスに努めている感があるわね。


○『悪の華』<憂愁>

咲: 警察小説としては余りにも異色(に見える)『雨の国の王者』だけではどうにも判断がつかなかったので、もう一つの代表作『バターより銃』も読んでみた。で、考えてみた結果、二つの作品には大きな共通点がある。シリーズはまだまだ続くらしいので確言はできないけれど、どうもこれがフリーリングの作風らしい。以下説明しよう。

姫: 『バターよりも銃』は、ルシエンヌ・エングルベールという非常に魅力的な女性を中心に、ファン・デル・ファルク警部を含め三人の男たちの運命が狂っていく、という「運命の女(ファム・ファタール)」ものの傑作ね。ただし一筋縄ではいかない作品だわ。ルシエンヌは単純に美しいというだけではなく、一種反社会的というか、常人の理解を裏切り続けるようなところがある、非常に多面的なキャラクターとして描かれていく。彼女のことを回想して、ファン・デル・ファルクは「ダイアモンドのような女」と評しているけれど、言い得て妙といったところかしら。

咲: 殺人事件の犯人は最初からルシエンヌだと分かっている(少なくともファン・デル・ファルクはそれを直観的に知っている)。物語は過去へと遡行し、彼女がいかにして今の彼女になっていったのか、ということを描きだして行く。これこそ、フリーリングが興味を持って書いていたことと思しい。『雨の国の王者』でも、それは同じことだ。ジャン・クロードという男は、なぜ約束された豊かな生活と美しい妻を捨てて失踪しなければならなかったのか、ジャン・クロードとはどのような人間だったのか、というのが本書最大の謎なんだ。

姫: あらすじにも出てきたけど、ボードレール悪の華に収録された<憂愁 Spleen>という一編の詩が、その謎に迫る手がかりになっているの。本書のタイトルである「雨の国の王者」というのはその一節ね。

僕はあたかも雨降る国の王にも似ている
富ながら力なく、年若く既に老いて
溥育係の博士どもの叩頭するのを嘲り笑い
愛犬をはじめ畜類と遊ぶことにも疲れ果てた。
何ひとつ心慰めるものはない。(福永武彦訳)

咲: 生きながらにして死んでいる、<雨の国の王者>ジャン・クロード・マーシャル。ファン・デル・ファルクは彼を追う中で、次第に一人の人格に漸近していく。出世競争に興味を持たず、自分勝手に捜査活動に勤しむことを半ば認められ、美しいフランス人の妻とともにつましい暮らしを送る彼の最大の長所、「想像力」がここで生きてくる。

姫: ファン・デル・ファルクが真実に辿りついたその瞬間がクライマックスなのだけど、この『雨の国の王者』ではもうひとひねりされているのが面白いわね。カシニウスの依頼を受けた彼は、この物語でどのような役割を果たしていたのかという副次的な謎が、メインの真相に結び付いて行く。今となっては分かりやすい部分もあるけれど、人間的な厚みを備えた登場人物たちの魅力は決して古びないわ。

咲: ハードボイルド小説やロマン・ノワールを愛読し、美食を好み、しかし女には弱くない、そんなファン・デル・ファルク自身の魅力も含めて一読の価値はあります。ただし、本作だけだと彼がどういう人物か把握しきれない部分があるため、『バターより銃』も合わせて読めばなお楽しめる、と付記しておくよ。

姫: 好意的な評が出たところで、今回はお終い!


○あれ、何か忘れてない?

咲: 次回はドナルド・E・ウェストレイク『我輩はカモである』(1967)です。

姫: 終わらせる前にクイズの答え発表をよろしく。

咲: そうだった。正解は……ロス・マクドナルドです。『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』『ドルの向こう側』と、この時期実に四作連続で最終候補まで残りながら、たったの一度もエドガー賞を取れなかった(『ドルの向こう側』でCWAのゴールド・ダガー賞を受賞)。オールタイムベスト級が並ぶのに、マリックやアダム・ホールにすら勝てなかったのは可哀そうデスね。

姫: 賞から縁遠く、商業的にも晩年まで成功しなかったという話だし……リュウ・アーチャー取り上げられなくて残念だわ。

咲: という訳で、正解者はおめでとうございました。

姫: なにも考えてなかったので、特に何もなく終わります。さよーならー。


(第十回:了)

バターより銃 (ハヤカワ・ミステリ 922 世界ミステリシリーズ)

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ドルの向こう側 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-10)

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