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深海通信 はてなブログ版

三門優祐のつれづれ翻訳ミステリ。主に新刊の話をしています。そういえば、「アントニイ・バークリー書評集製作委員会」公式ホームページ。

第二回:レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

○能書きは抜きにしようって言ったじゃないですか

咲: 今回我々は新宿のバー的施設にやってきております。
姫: ギムレットには早すぎるね。
咲: 別に早くないですね、8時過ぎだから。それが言いたかっただけだよね。
姫: 時に咲口君、私の出した条件はクリアしてくれたんでしょうね?
咲: 『長いお別れ』(1953)を再読するにあたってハヤカワ・ミステリ文庫の清水俊二訳で読むことと、あまりにも不勉強なのでチャンドラーを最低もう一冊読むこと、それから村上春樹ロング・グッドバイにも一通り目を通しておくことの三点だろ。一週間しかないのに無理させるよ。ちなみに?があるのに?を科した理由を教えて欲しいんだけど。
姫: 単純なことよ。私、春樹訳は読んでないの。
咲: いまさらっとありえないことを言ったよね。あれほど『長いお別れ』が好きだ好きだ言っている癖に新訳読んでないとか、許されざる所業では。あれか、村上春樹嫌いとかそういうことなのか?
姫: 別にそういう訳じゃないけど……なにその……乙女的にあれなんだけどぶっちゃけていいかしら?
咲: ご自由に。
姫: ロング・グッドバイ』とかそんなへにゃけたタイトルの本で、私のマーロウが活躍するとか許される訳ないでしょーがっ!!
咲: おいおい、周りには気を遣いなよ。しかし「へにゃけた」とか酷い……じゃあ『かわいい女』→『リトル・シスター』もダメなんだ。
姫: それは別にいいけど、でも『さようなら、愛しい人』に関してはダメね。書店で本を壊しそうになったわ。焚書対象よね。頑張れ始皇帝
咲: 姫川さんギムレット一杯で既にほろ酔いのようなので、先に進めたいと思います。


○例によってあらすじの説明から

姫: もはやあらすじ説明する必要があるとは思われない。
咲: (目が据わると一層怖いな。発言に注意しないと殴られかねない)まあまあ、未読の人が興味を持ってくれるかもしれないので。簡単に言えば、シリーズ探偵のフィリップ・マーロウと若白髪の酔いどれテリー・レノックスの出会いから始まる物語だね。酔っ払いに関わるとロクなことがないんだ、と言いながらも甲斐甲斐しくレノックスの面倒を見てやるうちに、マーロウはレノックスと友情を育んで行く。そのうちに大金持ちの元恋人とよりを戻してレノックスは結婚、平穏な日々が訪れる。しかし、彼が突然マーロウ宅にやって来て、自分を空港まで連れて行ってくれと頼んだ日、物語は大きく動き始める。
姫: それで全体の10分の1といったところね。しかし泣けるわ……
咲: いくらなんでも早すぎると言いたいところだけど、この「マーロウとレノックスが男の友情を育む」シークエンスは、この作品の中でも最良の部分のひとつなんで分からないでもない。この後、実はレノックスが妻殺しの嫌疑を受けていることが分かる。マーロウが強情にレノックスの行方を言わないために、留置所にぶち込まれる。3日ほど拘留された後、誰か知らないが弁護士を雇ってくれたおかげで出られる。レノックスはメキシコで自殺する。ここまでが第一部。別に区切りがある訳じゃないが。
姫: 第二部はその次にマーロウが請け負った事件の話になるんだけど、ここからがまた長いのよね。とりあえずここまでにしておくのがいいと思うわ。

○ハードボイルドと『長いお別れ』

咲: この『長いお別れ』という作品は、ハードボイルドミステリを書き続けたチャンドラーのキャリアの中でもかなり異色的な作品なのではないか、と読み返して思ったんだよね。
姫: どういうことなのか説明してもらってもいいかしら。
咲: ふむん。いや、この作品について論じる前にまず、「ハードボイルド」という概念について、少し整理したいんだけどいいかな。「ハードボイルド」という概念は、端的に言えば 1.一人称の主人公が視点人物である、2. 彼/彼女の感情の発露を極力排し、行動を中心に描く、という二点に集約できる。
姫: 概ね正しい解釈だと思うわ。それゆえにハードボイルドの視点は「カメラアイ」と呼ばれる。特にロス・マクドナルドの作品の主人公リュウ・アーチャーは、作者自身から、「内面のない、紙のように薄い人物」とさえ書かれているほどね。
咲: このように「ハードボイルド」を定義したとき、『長いお別れ』という作品はどのような立場に置かれるだろう。1.は当然達成しているんだけど、2.についてはいささか疑問がある。特に序盤、マーロウはしばしば後悔を口にする。例えばこうだ。

私が尋ねたら、彼は生まれてからのことを話してくれたかもしれない。だが、私はどうして顔に疵をうけたかということさえ訊かなかった。もし私が尋ねて、彼が話してくれていたら、二人の人間の生命が助かっていたのかもしれないのだ。必ず助かっていたとはいえないのだが。(清水訳, p.32)

姫: なるほど。「いま、ここ」の状況を見て、感傷を表に見せないまま行動を起こす人物をハードボイルド小説の主人公として据えると、その場には「後悔」なんて存在しないはずよね。つまり、咲口君は『長いお別れ』をハードボイルド小説の範疇から外してしまおうというの?
咲: というよりもチャンドラーは、『長いお別れ』という作品を書くことで、ハードボイルドに元々含まれていた意味合いを転換してしまったと考えたいね。ハメットや、さらに遡ってヘミングウェイが書いた原・ハードボイルドにおいて、視点キャラクターとはすなわち、事態を観測し、それに対応した行動を起こす「現象」「装置」に過ぎず、顔も名前も不要だった。
姫: チャンドラーの初期作品においてもそれは言えるわね。もちろんフィリップ・マーロウという名前はついているけれど、別にマーロウでなければならない理由はない。マーロウ自身に関する情報は、過去の来歴も現在の生活も必要最低限しか与えられていない。短編では、初出時は別名のキャラクターが視点人物だったのに、短編集収録時にマーロウに挿げ変えたものまであるそうだし。
咲: ところが『長いお別れ』という物語は、「テリー・レノックスの親友であるマーロウ」が主人公でなければ成立しない。ここにおいてマーロウはもはや「名無しの現象」ではありえない。物語の外側を回遊するだけの存在ではなく、確固とした人格を持った登場人物として物語に関与し、その最後を見届ける。
姫: うーん、それをハードボイルド小説の新たな局面として取り上げるのは無理があるのではないかしら。その前段階として、ミッキー・スピレーンの存在を無視することはできないでしょう。マイク・ハマーが「死んだ戦友の敵討ち」のために悪を滅ぼす『裁くのは俺だ』は1947年発表だから、『長いお別れ』よりもはるかに早いわ。それから、ロス・マクドナルドは明らかにチャンドラーの影響を受けた作家だけど、「現象」としてのリュウ・アーチャーを書き続けた作家だと思うわ。そこのところどうかしら。
咲: 完全に論を潰しに来ている……そこは形式と内容の問題だよね。初期スピレーンは形式ではチャンドラーを先取りしているけれど、主人公の内面に踏み込むような内容ではない。ロスマクが影響を受けた部分は、プロットを含めたチャンドラーの小説技法であって全面的にチャンドラーの後継とは言い難い。チャンドラーの後継的存在はむしろ、主人公に弱みを持たせることでキャラ立ちさせることを選んだネオ・ハードボイルドの諸作家ではないかな。
姫: まあ、今日はそのくらいにしておいてあげるわ。ロバート・P・パーカー『約束の地』の回にその辺をきちんと説明してもらいますからね。

○さよならを言うことは

咲: いい加減長いので、真面目な解説はさておきまいて行こう。いやー、最後の「さよならを言うことは少しだけ死ぬことだ」って言う台詞カッコいいよね。
姫: いきなり感想文っぽい内容になったわね。「さよならを言うことは」で思いだしたけれど、チャンドラーが「goodbye」という単語を、この『長いお別れ』の中で35回も使っているのはご存じかしら? ところが、チャンドラーは『長いお別れ』以外の長編では、一回たりとも使ったことがないの。「goodbye」は『長いお別れ』に偏在しているのね。
咲: え、まさか原書を一ページずつ確認したの。変態的所業ですね。
姫: さすがにそこまではしてないわ。インターネット時代ですもの。全文検索でちょちょいのちょいよ。
咲: チャンドラーは死後50年以上経っているから著作権的にも問題なさそうで何より。
姫: さておき! チャンドラーがこの語をとても大事に思っていたことが分かるエピソードでしょう。ところが、残念なことに清水訳ではその重要性がいまひとつ反映されていないのよ。
咲: 原文と照らし合わせると、清水訳はめちゃめちゃ省いてるからね。細かいイメージの組み合わせによって読者に、より深いイメージを喚起させるチャンドラーの装飾文体の面白さを削っている部分がかなりあるな、と春樹訳を読んで思ったよ。その「goodbye」についてもあったかな。
姫: 最後よ最後。

「さよなら、マイオノラス君。」(p.536)

咲: なるほどね。確かに流れ的にマーロウが、このシーンで「さよなら」なんて言う訳ないな。ちなみに原文ではこの「さよなら」は”So Long.”で、春樹訳では「御機嫌よう」と処理されていたよ。単純に日本語に直してしまうと、「goodbye」と「so long」には意味上の差がないもんな。
姫: むー、やはり春樹訳読むべきかしらねえ……
咲: 最新の知見含めて訳しているんだから、新たな発見があるかもしれないよ。
姫: 検討しておくわ。あふ。

○次回予告

咲: ということで、今回はお終い。
姫: 前回よりもはるかに長くなってしまったわね。ハードボイルド論とか疲れた……。読む価値ありなし判断は必要ないわよね。
咲: あー、忘れてた。それ重要だよ。読む価値はもちろんあります。我々の妄言を抜きにしても、プロット・人物造型に優れた必読の傑作です。未読の人はぜひ読んでください。
姫: はぁい。次回はマーガレット・ミラー『狙った獣』です。お楽しみにぃ(寝

(第二回:了)