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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

クリスティー原作映画 The Passing of Mr. Quinn とそのノベライズについて

本日、山口雅也プロデュースになる海外ミステリ叢書《奇想天外の本棚》の第一弾、アガサ・クリスティー原作、マイケル・モートン『アリバイ』が発売されます(都内の早い書店では既に置かれているようです)。この作品は、クリスティーの初期の名作アクロイド殺し(1926)の戯曲版(1928)であり、ハヤカワ・ミステリにもごく早い時期に収録された(長沼弘毅訳)のですが、これまで文庫化/クリスティー文庫への編入の機会がなく忘れられていました。

アクロイド殺し』と言えば、ある仕掛けを作品に巧みに生かしたごく早い例の一つとして良く知られています。メディアミックスに当たってはこれを如何に活用するか(あるいは使わない形で如何に観せるか)が重要になってきますが、モートンが原作をどのように処理したか(私も未読なので)楽しみにしています。

 

さて、この刊行に合わせて私もクリスティーの未訳のメディアミックス作品を一つ読んでみました。今回紹介する The Passing of Mr. Quinn は、クリスティーの名探偵の一人、ハーリ・クィン氏が初登板した "The Coming of Mr. Quin" (邦訳:「クィン氏登場」、『謎のクィン氏』(1930)所収、初出:1924年)の映画版(1928)をG・ロイ・マクラエなる謎の人物が同年にノベライズした……という、謂わば二重の「語り直し」が行われた作品で、2017年にコリンズ社から約90年ぶりに復刊されました。残念ながら The Passing of Mr. Quinn のフィルムは現存しておらず、その内容はノベライズ版から推し量るほかありません。

The Passing of Mr. Quinn はクリスティーの「初映画化作品」であり、メディアミックスの女王である彼女について考える上で重要な作品と言えますが、鑑賞したクリスティーが「自分とは関係のない作品として扱うように」という衝撃な指示をしたというエピソードでも知られています。彼女の映像作品の研究で有名なマーク・アルドリッジが序文で記していますが、雑誌掲載時の題(映画と同名)を単行本収録に際して改め、またクィン氏の綴りを以降 Quinn から Quin に変更するなど、映画と自作の関係を徹底的に排除しようとした形跡が残っています。では、クリスティーはこの映画のどこがそこまで気に入らなかったのか。ノベライズ版を実際に読んで確認してみました。

まず目につくのは分量の差です。原作の「クィン氏登場」は原書では20ページ強ですが、このノベライズ版は180ページ弱あります。このことから、映画の尺の都合(100分)で相当の引き延ばしが行われたことが分かります。原作の大まかなプロットを説明しつつ、何がどう加筆されているかを指摘してみます。

原作「クィン氏登場」で扱われるのは、「①10年前に起こった理由の分からないデレック・キャペルの自殺」と「②その自殺と同時期に裁判が行われたアプルトン博士毒殺事件」、この二つの謎です。クィン氏という謎の人物が、医師のアレックス・ポータル夫妻が主催した仲間内のパーティに突然登場し、この二つの事件の関連性を示唆することによって最終的には人間関係の縺れが緩やかに解決する……というのがこの作品のあらすじです。①②はいずれも過去の出来事ですが、短い対話の中で事件の様相を浮かび上がらせ、また鮮やかに逆転させるところにクリスティーの上手さが現れています。

これに対して映画版は、②を大きくクローズアップしています(①は物語の都合で相当変形されました)。現在進行形で進む「アプルビイ博士毒殺事件および被害者の妻エレノアが掛けられる裁判」の描写にかなりの分量が割かれ(全体の半分以上)、また彼女と医師アレック・ポータルのロマンスにフォーカスが当てられます。そして物語は2年後、アフリカ帰りを自称する不気味な人物クィニー氏が突然現れるパーティを経て、氏が事件の真実と自らの意外な素顔を明らかにしたところで幕となります(年代や人名の差異は意図的なものです。なお、映画版にはサタースウェイト氏に相当するキャラクターは登場しません)。

原作と映画版、二つの物語のディテール(例えば、毒殺事件で被害者の妻がワインのデキャンターを割ってしまうシーンなど)は良く似ているのですが、ディテール以前のもっと根本的な部分が改変されたことにより、まったく印象の違う作品になっているのは興味深いところです。クリスティーが映画版を気に入らなかったのは、物語のテーマと考えていただろう「歪んだ愛の救済」が映画版では見事にオミットされているからでしょう。しかし、映画版はメロドラマに寄りすぎな部分はあるとはいえ、迫力のある裁判パートや「意外な犯人・探偵役」などオリジナルな部分でかなり頑張っていることもあり、一定の評価は可能だと思います。まあよりによって幻想的な「ハーリ・クィン氏シリーズ」の一作をなんでこんな内容にしてしまったのよとツッコミたくはありますが。

邦訳の機会はないでしょうが、一個の珍品として記憶の片隅に留めてもいい作品だと思いました。

 

The Passing of Mr Quinn (Detective Club Crime Classics) (English Edition)

The Passing of Mr Quinn (Detective Club Crime Classics) (English Edition)

 
謎のクィン氏 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

謎のクィン氏 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)