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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

本を読んだら書く日記20181204|マージェリー・アリンガム『殺人者の街角』

文学フリマ以降本を鞄に突っ込んでも読めない日が続いていたが(主にソシャゲが原因なので言い訳の余地がない)、ようやく指針が立ってきた印象。

ということで諸事打ち合わせをしに表仕事は半休を取って神保町へ。はい、Re-ClaM Vol.2の特集関連です。企画は通りましたので、執筆者が集まれば何とか出せそうです。

2時間ほど話をして疲れたので、適当に古本を眺めてから帰る。以下購入本。

ヴィクター・カニング『隼のゆくえ』(新潮社)\200

石沢英太郎『ブルー・フィルム殺人事件』講談社文庫)\400

『隼のゆくえ』は探すともなく探している児童書シリーズの最終作。一冊目のチーターの草原』もそのうち見つけたいものだ。カニングは『溶ける男』『QE2を盗め』しかまだ読んでいないが、なかなかいいスリラー作家なのでもっと読まれてほしい。石沢英太郎はボチボチ収集中。

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マージェリー・アリンガム『殺人者の街角』(論創海外ミステリ)を読んだ。

検屍官の領分』(1945)、『葬儀人の次の仕事』(1949)、『霧の中の虎』(1952)、『殺人者の街角』(1958)と作者の戦後の作品を読んでいくと、そこには一種の「郷愁」というか、今はもう遠くなってしまった「戦前」の世界を振り返るような作者の姿勢が見て取れる。ただそれは「昔は良かった」「それに比べて今は~」という「感傷」とはまた違うものかもしれない。(『霧の中の虎』と『殺人者の街角』の間の未訳作 The Beckoning Lady は、キャンピオンが小さな村で起こった殺人事件の謎に挑む話だそうだが、これもまた一つの「郷愁」と読める)

さてこの作品では、例えば当座のちょっとした借金を返すためにいとも気軽に強盗殺人を行う「殺人者」(他にも明らかになっていない複数の殺人事件の犯人である)ジェリーの肖像が物語の中心に据えられている。小綺麗にしていて金離れのいい彼はロンドンの様々な立場の人々に知られているが、彼らは実は用心深い彼のことをほとんど知らない(彼は名前さえ、状況に応じて微妙に異なる偽名を使い分けている)。この物語では、ジェリーの正体を知らないまま、お人よしにも世話をしている老女ポリーのところに、田舎から親類の女の子がやってきた「ある一日」の出来事が描かれる。ポリーは、一歩間違えばゴミ箱送りの骨董品を集めた「博物館を経営している」(ごみ屋敷に暮らしている)女性で、彼女の古き良き善良さとジェリーの「サイコパス的な悪」(それは「戦後」に特有のものかもしれない)は対比的に描かれている

本作のハイライトは、大詰めの場面で訪れる「対面」のシーンである。『霧の中の虎』を読んだ人は、恐るべき犯罪者「虎」と神父とが対面するシーンを思い出すかもしれない。アリンガムは「対極の立場にある者を闇の中で対峙させる」手癖があり、そこでその人間たちの感情を、そして本性を迸らせる。己の欲を満たすため他人を利用して憚らない、罪の意識など欠片もないジェリーは、どこかパトリシア・ハイスミスの「ヒーロー」トム・リプリーを思い出させる(シリーズ第一作リプリーは1955年の作品であり、アリンガムが読んでいた可能性ももちろんある)が、本作はアリンガムの目指す地点がハイスミスのそれとはまた違うことをまざまざと見せつけてくれる。それがどう違うかは、ぜひご一読いただき判断してほしい。

本作は1958年のCWAゴールドダガー次点(受賞作はマーゴット・ベネット『過去からの声』(論創海外ミステリ))だが、その高評価も納得の良作である。

殺人者の街角 (論創海外ミステリ)

殺人者の街角 (論創海外ミステリ)

 
霧の中の虎 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

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太陽がいっぱい (河出文庫)

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