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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

【未訳作品紹介】アンドリュー・ウィルソン A Talent for Murder (2017)

 アガサ・クリスティーの名を知らないミステリファンは恐らくいないだろうし、仮にミステリファンでなかったとしてもそして誰もいなくなったアクロイド殺しといった作品に何らかの形で触れたことのある人は多いと思われる。(最近日本人キャストで映画化・ドラマ化されたしね)

 そんなアガサ・クリスティーの人生には未だ解き明かされていない謎がある。1926年12月3日、その年アクロイド殺しを刊行して大絶賛と、そして同じくらいの批判を浴びた彼女が突如失踪。彼女の生死の状況は不明のまま、事態は国中を巻き込む大騒動となり、自殺・事故・殺人・誘拐・あるいはただの家出、と議論が百出した。11日後、彼女は北イングランドのヨークシャーで鉱泉ホテルに泊っているところを発見されたが、なんと失踪中の記憶を失っていた。

 最愛の母親の死、自著に押し寄せた数々の批難、夫の不倫発覚。ごく短い期間に次々に訪れた試練に押し潰されてしまったというのが衆目の一致するところだが、クリスティーが自伝でこの「失踪事件」を黙殺したこともあり、「何か秘密があるのでは」と逆に多くの作家・研究者の興味を掻き立ててきた。この「事件」については多くの小説・評論が書かれてきたが、つい昨年、一石を投じる作品が出版された。それが今回紹介するアンドリュー・ウィルソンA Talent for Murder である。

 ちなみにアンドリュー・ウィルソンは、パトリシア・ハイスミスの伝記 Beautiful Shadow (2003) でエドガー賞の評論・評伝賞を受賞し(河出書房新社さん、翻訳頼みます!)、自分でもハイスミス風の小説『嘘をつく舌』(2007)を書いてしまったジャーナリスト。粘り強い取材で優れた伝記・評伝を書くことに定評のある作家で、 A Talent for Murder は小説第二作に当たる。

A Talent for Murder (English Edition)

A Talent for Murder (English Edition)

 

 

 長々とした前置きになったが、そろそろ本編の紹介に入ろう。1ページに出てくるのが「編者のノート」である。本書の編者で登場人物の一人であるジョン・ダヴィソンが成り立ちを説明するという内容だが、実際この時点で本書の胡散臭さはメーターを振り切ってしまう。枠物語の形式を用いて、現実と虚構の狭間に霧をかけていく作者の手法は、ありきたりとも言えるがそれだけに効力を発揮している。

 さて第一章だ。1926年12月1日、ロンドンで地下鉄を待っていたアガサは、誰かに突き飛ばされて線路に落ちかける。危ういところで彼女を救ったのはクルスという若い医者だった。彼女のファンだというその男は最新作アクロイド殺しを褒め称え、その素晴らしさは作者自身が「殺人者の天性」を持ち合わせている故だと語る。そして畳みかけるように、夫のクリスティー中佐の不倫を世間に暴露されたくなければ、あることをしてほしいと脅迫する。金が欲しいのかと尋ねるアガサにクルスはこう答える。

「いささか不躾に感じるかもしれませんが、きっと貴女も興味を持って下さるはずだと信じています」

「貴方は一体何の話をしているのかしら?」

「クリスティー夫人、貴女には殺人をしていただきます。そうそう、その前に一旦失踪していただくことにしましょうか」 (第一章)

 そんなことはできるはずもないと怯えるアガサだったが、クルスはもし断るならば夫の不倫の暴露に加えて彼女の娘ロザリンドがどうなるか分からないぞ、と圧力をかけてくる。やむなくクルスの脅迫を受け入れたアガサは、誰にも何も告げないまま12月3日の深夜に「失踪」を遂げるのだった。以降、クルスの指示でヨークシャーのホテルに待機するアガサの視点を軸にして、警察の捜査(クリスティー中佐を殺人者と疑うケンワード警視が中心)とジャーナリスト志望の素人探偵ユナ・クロウの無茶苦茶体当たり調査が絡まり合いながら物語が進んでいく。

 クルスは作家志望でもありアガサを強く私淑しているが、同時に彼女を「自分が紡いだ物語の登場人物」として扱い、完全犯罪を成し遂げさせようとする。それに対してアガサは何とか「クルスが既に書いた物語」から脱出して一発逆転を仕掛けようとする。さらにここにもう一人重要な人物の意図が絡み、物語のボルテージが一気に高まっていく。

 断片的な歴史的事実とサスペンスフルな虚構とを巧みに組み合わせた本作はそこそこ長め(PBで350ページ程度)だが、私程度の読解力でもこの三日で280ページ近く読めたことも示す通り非常にリーダビリティが高く、英語も難しくない。終盤の展開にはもちろんワクワクさせられたが、巻末に付された「好事家のためのノート」で明らかになる衝撃的な事実を前にしてはもはや何も言えない。「編者のノート」のあれはそういうことだったのかと膝を打つこと間違いなし。アンドリュー・ウィルソン、恐ろしい作家……必読の傑作です。翻訳されたら是非読んでください。

 

追記:本書の続編が既に書かれている。その A Different Kind of Evil (2018) は、「失踪事件後、『青列車の秘密』を書きあげたクリスティーが気晴らしのためにカナリア諸島に向かう船旅を舞台にした作品」で、「クリスティー自身による作品を思わせる企みに満ちたプロットが素晴らしい」「本年度でも屈指の謎解きミステリの逸品」との評価を受けている。読んだら感想を書きます。

A Different Kind of Evil (Agatha Christie 2)

A Different Kind of Evil (Agatha Christie 2)

 

 

参考:今回のテーマに関係する本を何冊か上げておきます。

アガサ 愛の失踪事件 (文春文庫)

アガサ 愛の失踪事件 (文春文庫)

 

 映画化もされた小説。ウィルソンの本を読んだ後、さらっと通読したが流石に格が違いすぎた。夏樹静子の訳は前半はやや硬いがページが進むとこなれてくる。

なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?―七十年後に明かされた真実

なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?―七十年後に明かされた真実

 

 真面目な評伝。俗説を排して事実に基づいた調査を心がけている。アンドリュー・ウィルソンも本書を参考にした旨を謝辞に述べている。

嘘をつく舌 (ランダムハウス講談社文庫)

嘘をつく舌 (ランダムハウス講談社文庫)

 

 ウィルソンの小説第一作。ヴェネツィアを舞台に老作家の過去を探る若者……というハイスミス的な雰囲気と、自分とハイスミスの(実際に会ったことはないそうですが)関係をなぞったような内容がうまくかみ合った良作。今からでも読む価値あり。