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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

皆川博子全短編を読む 番外編①「フェイク世界史小説」『碧玉紀』を読む

第四回はどうした?という疑問もあるかと思いますが、うっかり番外編をやってみました。

 

皆川博子には未収録の短編が数多くありますが、長編作品にも単行本化されていない作品が一つあります。それが今回ご紹介する『碧玉紀(エメラルド)』です。

この作品は、小学館が季刊で発行していた文藝誌「文藝ポスト」に、1999年夏号から2000年秋号まで全六回に渡って連載されました。執筆順では『死の泉』(1997)の次に当たります。『結ぶ』所収の短編「火蟻」(オール讀物1998年7月号発表)などは、本作を書くための取材旅行で南米を訪れたことがきっかけに書かれた、という話を何かで読んだのですが、どこに書かれたものだったかは、残念ながら思い出せませんでした。

同時期に連載されていた作品には、火坂雅志蒼き海狼』、貫井徳郎空白の叫び』、池井戸潤最終退行』などがあります。これらの作品は連載後ほどなくして単行本化されているのですが、『碧玉紀』はなぜか単行本化されないまま埋もれてしまいました。最終回には「『碧玉紀』は本紙連載を大幅な増補の上で単行本として皆様の前に姿を現します。しばしのお待ちを!!」とあり、単行本化の予定はあったようですが……ちなみにこれも同じく連載されていた作品に山田正紀ハムレットの密室』があります。山田ファンの方はご存知かと思いますが、実はこれも単行本化されないままになっている作品として有名です。

この作品を今読もうと考えると、「文藝ポスト」を古本屋で一冊ずつ買い求めるか、あるいは国会図書館に収蔵されているものを読むか、のいずれかになります。前者は正直現実的ではないので、今回は国会図書館で全ページをコピーし、それをスキャンしたデータをひたすら読みました。分量は、A5サイズの1ページに三段組で印刷されたものが400枚。1ページ1000文字くらい、挿絵のページもありますので、一概には言えませんが、400字詰め原稿用紙で1200枚くらいでしょうか。

 

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さて本筋。

最初の「罌粟」の物語は、1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦がまさに決行されている当日、ドーバー海峡を見下ろせる丘が舞台となっています。このシーンではPK(ナチスドイツの宣伝中隊)の服をまとった隻眼の男が、重傷を負ったヒトラー・ユーゲントの少年兵と出会い、元映画館と思われる廃屋で治療を施しながら、フランス映画やアメリカ映画について語りあうという内容です。

ところが次の章は「」。「罌粟」の物語とは遠く離れた地南米の「神聖ゲルマニア帝国」、その中にある「ヴァチカン公国」を舞台に進行します。この「帝国」は20世紀末から21世紀にかけて、イスラム勢力がヨーロッパへの進出を果たし、英国(「大英共和国」)を除くほぼすべての国を支配した時に、それに対抗する形で南米に成立したナチスドイツを精神的基盤とする国家、という設定になっています。まさかの遠未来、まさかのSF。

「砂」の物語は、①「ヴァチカン公国」の教皇の視点と、②「大英共和国」からやってきたフリージャーナリスト、ジョン・マッキンタイアの手記の二つから主に描かれていきます。神の意志の元抹殺しなければならないと伝えられている「少年」が旧大陸で確保されたこと、ジャングルの奥地に住むという「タマゴ女」が下流に流れ着いたこと、宮殿内部に秘された牢獄に捕えられた「隻眼の男」の存在、またマッキンタイアが出会う奇妙な人々など、物語のキーになるものは、第一回で次々に提示されていきます。

罌粟」「砂」、この二つの物語が交互に語られていくなかで、「薔薇」「百合」「葡萄」の物語が次々に始まっていきます。「薔薇」は、ペスト禍に苦しむ14世紀のドイツのゲットーで展開され、「百合」は、アルビジョア十字軍をはじめとする異端狩りが猛威を振るった12世紀ヨーロッパを縦断し、そして「葡萄」は、1930年代と70年代のドイツでの映画製作が描かれます。いずれの時代にも現れ、子供を助け、護り、そして時には殺す「ヘル・シュトゥルム(嵐)」こと隻眼の男の存在は、最大の謎として残り続けます。時を超え大陸を超え登場する彼はいったい何者なのか?

 

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『碧玉紀』の物語の本線はここまでも書いてきたように、隻眼の男と彼の傍らに常にある少年の秘密を描き出すことをテーマにしています。しかし、本作は「フェイク世界史小説」(第一回の煽り)を自任する作品であり、単なる「歴史奇想伝奇小説」として受け取ることはできません。

本作を特異たらしめている最大の要素が「映画」です。

歳月は、捕えようもなく消える」/「ニュース映画は、<時>をフィルムに定着する。<時>は一方向に流れるのを強制的に中止させられ、停滞し、逆行する。フィルムに定着するということは、<時>を手に入れるということだ。従順に飼い馴らし、自由にあやつることだ。映画というものが発明されるまでは、<時>は、失われるものであり、私の眼底にあるものは、私ひとりの所有物であり、他に伝達することは不可能だった」(第3回、「葡萄Ⅰ」より)

そう語る「ヘル・シュトゥルム」は、作者の本作にかける哲学の代弁者と言えるでしょう。

冒頭「罌粟」に登場する「エメラルド」というフィルムが登場しますが、これは「葡萄Ⅱ」(70年代ドイツ)で作成されていた(が謎の失踪を遂げた)「はず」の映画の一部です。対して「砂」では、「隻眼の男」が所有していたというフィルムの断片が「抹殺すべき少年」を指し示す証拠として利用されますが、しかしこれまた「葡萄Ⅱ」の物語で焼失した「はず」のスナッフ・ムービーの一片と思われます。

なぜこのようなことが起こるのか、あるいは「なぜこのようなことを作劇上起こさなければならない」のか? それは、ぜひ本作を読んで確かめていただきたいと思います。

 

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と、ここまで非常に理屈っぽく書いてきましたが、本作はもちろん皆川博子ファンにとって最高に楽しめるものに仕上がっています。折々に繰り広げられる「少年たち」と隻眼の男の掛け合い、死を賭して闘う男たち、そしてまた別次元の戦いを繰り広げる女たちの美しさ、熱帯幻想と薬物による幻視が入り乱れる描写の数々……皆川博子だけが書き得る世界の濃密なエッセンスを、しかも大量に摂取させられ、酩酊させられることは間違いありません。各話それなり以上の分量があるとはいえ、オムニバス形式に近いので飽きることもありません(その点、個人的に高く評価している『伯林蠟人形館』に近いともいえます)。

 

ごく個人的な感想ですが、皆川博子の最良作にも伍す非常に先鋭的な作品だと思いました。15年間寝かされたままの作品が、本当に増補されて刊行されることがありうるのか。それは誰にも分かりませんが、より多くの皆川ファンに読まれる時が来ることを祈りつつ、本稿を閉じたいと思います。

もしこの文章を読んで本作に興味を持った人がいれば、ぜひ国会図書館に読みに行ってみてください。ただし、コピーをしようと思うと、それだけで一日がかりの仕事になるかもしれません。ご覚悟を。