○弱虫泣き虫意地っ張り
咲: はじめますか。しかし、短編読んでたとかインフルエンザとか中の人が忙しいとか、ひと月も開いてしまうと単なる言い訳にしか聞こえないので……毎週更新に戻せるように頑張ろう。
姫: 今回取り上げるのはディック・フランシス『利腕』(1979)です。フランシスは『罰金』に続く二度目の登場ですね。ちなみに『利腕』は、1979年のCWAゴールドダガー賞も受賞しているわ。英米両方で高く評価された、まさしくフランシスの代表作と言って差し支えない作品よね。
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咲: フランシスは原則的にシリーズキャラクターを持たない作家だけど、本作『利腕』で主役を張るシッド・ハレーは例外的存在。シリーズ第一作『大穴』(1965)以来14年ぶりに登板した彼は、のち『敵手』(1995)、『再起』(2006)と、四作品に登場することになる。
姫: 『敵手』はエドガー賞受賞作なので、またいずれ扱うことになるわね。あ、あと「例外的存在」とは言ったけれど、他にもチャンピオン騎手のキット・フィールディングが登場する連作『侵入』『連闘』もあるので、シッド・ハレーが唯一のシリーズキャラクターという訳ではありません。念のため。
咲: えーまあ、そちらは出来が微妙なので……(ごにょごにょ)。
姫: 咲口君、以前攻略で『罰金』を取り上げた時のこと(http://d.hatena.ne.jp/deep_place/20120918/1347987785)を覚えている? あの時は、かなり酷評してしまったけれど、今回はどうだったかしら。
咲: これまで何冊かフランシス作品を読んできて、正直自分はこの作家の面白さが分からない人間だと思っていたんだよね。で、今回まったく期待せずに『利腕』を読んで、はたとひざを打ちましたよ。なるほど、そういう作家か、と。
姫: 咲口君の感想も聞きたいところだけれど、まずは規定通りあらすじから入りましょうか。以下〜
厩舎に仕掛けられた陰謀か、それとも単なる不運なのか? 絶対ともいえる本命馬が次々とレースで惨敗を喫し、そのレース生命を断たれていく。馬体は万全、薬物などの痕跡もなく、不正の行なわれた形跡は全くないのだが……片手の敏腕調査員シッド・ハレーは昔なじみの厩舎から調査を依頼された。大規模な不正行為や巧妙な詐欺事件の調査を抱えながら行動を開始するハレーだが、その行手には彼を恐怖のどん底に叩きこむ、恐るべき脅迫が待ち受けていた!(文庫裏表紙あらすじより抜粋)
咲: という風にあらすじではまとめているのだけれど、本当のところ筋はもう少し複雑。前作で別れたシッドの奥さんの実家の持ち馬が狙われているらしいという点は無視できない重要なファクターだ。関係が近すぎて無碍に断ることのは容易じゃないし、逆に相手に捜査を止められても、「はいそうですか」と言ってしまうこともできない。この時点で既に複雑な葛藤が発生してくる。
姫: シッド・ハレーの魅力の一つはその「葛藤」にあるのかもしれないわね。シッドは四六時中葛藤している、とても「ヒーロー」とは言い難い普通のおじさんだわ。上記あらすじの「脅迫」(詳述は避ける)を受けた彼は「逃げ出しちゃダメだ……でもそんなことになるのは嫌だ。」と散々悩んだ末、依頼をほっぽり出して誰にも言わずにフランスの観光地に逃亡してしまったりする(笑)
咲: いやー、でも実際そんなことになってしまうのは嫌でしょう。彼の内面では、なにもかもに目を閉ざして逃げ出してしまいたいという感情が「責任感」という言葉の周りでグルグル渦巻いていて、その混乱は読者にもヴィヴィッドに伝わってくる。
姫: そこで、シッドが無口で感情を表に現わさないキャラクターという設定が生きてくる訳ね。作中人物は、シッドがそんな風に悩んでいることが見えていない。「恐れ知らずのタフガイ」と思われている男の弱さを、誰一人知らない。「ごく普通の男」シッド・ハレーは、「ごく普通の男」に見えないために色々なものを失ってしまう。
咲: その時、読者にだけそのギャップが見えているという構造を持ちだして来るフランシスはあざといまでに巧い。読者は誰もが彼に感情移入できるし、無理解な作中人物への怒り、悲しみ、そして虚しさをハレーと共有できる。だからこそ、勇気を振り絞って最悪の敵に再び立ち向かったラストシーンで敵が放つ一言が、痺れるほどの感動を揺り動かすんだ。
「この世になにかないのか」彼は苦々しげにいった、「お前が恐れるようなものは?」
姫: ハレーが心の底から恐れるただ一つのもの、それ以外の恐れをすべて振り払ってでも陥ってはならぬもの、その正体はあなた自身でこの本を読んでたしかめてくださいな。
咲: フランシスのキャラクターって本質的に弱虫なんだよね。情けないくらい卑屈になってしまう時もあるけれど、絶対譲れぬ「矜持」に関してだけはいじっぱり。実にガキっぽいキャラクター造形だけど、ストーリーの中でそれを上手く活かせた作品は本当に素晴らしい。今から考えると、『罰金』の主人公もそうだったのかな。ま、ラストシーンのひどさについては、まったく評価変わらんけどさ。ま、今回こそは傑作!で文句ありません。
姫: それにしても、今後シリーズが続くなら、泣き虫弱虫意地っ張りなシッド君の本質を理解してくれる友人を創造してあげて欲しいものね。その辺りは、続編『敵手』レビューの際にぜひ検討しましょう。
咲: さて次回は、ウィリアム・ベイヤー『キラーバード、急襲』で、また会おう。
姫: 胡散臭げなタイトルが実にそそる一品ね。お楽しみに。
(第18回:了)
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