深海通信 はてなブログ版

三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

第九回:エリック・アンブラー『真昼の翳』(ハヤカワ・ミステリ文庫)+ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』(ハヤカワ文庫NV)+アダム・ホール『不死鳥を倒せ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

○戯画化されたスパイ小説

姫: 主に中の人の事情で三年分一気に片付けるということになりました。夏休みだしね。

咲: 冒険・スパイ・謀略小説を系統だって読んでいないので、この三作の歴史的な位置づけなどは概ね大雑把というか、間違いが散見される可能性が高いので、信用しないのが正しい態度だと思う。

姫: 正直なところ、私もさほど自信がないわ……。まあ、この「攻略」は、歴史的云々以上に、単作として読むに値するかどうかを計る面が大きい、という裏事情もあるので構わないでしょう。さて、一作目の『真昼の翳』(1962)だけれど。


咲: エリック・アンブラーは、1936年に『暗い国境』という作品でデビュー。初期の『あるスパイへの墓碑銘』『ディミトリオスの棺』が有名だけど、むしろ、『真昼の翳』を含む後年の作品が高く評価されていて、英米のミステリ賞を何度も受賞しているし、CWA・MWAそれぞれの巨匠賞にも選ばれている。

姫: 「一般市民」が「予想外の展開」により「国際的謀略」に巻き込まれてしまい、「命がけの冒険」を繰り返し、「危難を乗り越える」という、単純かつ王道的なストーリーで30年以上書き続けるというのもすごいわね。いわばスパイ小説のお手本。

咲: ジョン・バカンなど、第一次大戦期前後の冒険小説(= Cloak and Dagger)の時期から、この手の「巻き込まれ型謀略小説」は繰り返し描かれてきた。その最大の特徴は、主人公が「パブリック・スクールの出であること」……らしいんだけど、日本人にはどうもこの点がピンとこない。

姫: 「パブリック・スクール」=「お金持ちの子弟のための寄宿学校」よね。それこそP・Gウッドハウスの小説に登場するおバカなボンボンの出身校。ようするに、そういうエリート学校卒業生は、「普通にその辺にいる人じゃない」ってことなのかしら?

咲: イギリスという国は、身分の違いによる生活の格差が、日本と比べて遙かに大きい。それがいわば当然の感覚として、全国民の体に染みついている。君も言っていたけれど、「パブリック・スクール出身者」=「社会のエリート」なんだ。そんじょそこらの二流学校とは次元が違う、という意識がある。「社会のエリート」だから、社会の秩序を脅かす輩をぶっ飛ばすのはある種義務的な面がある……らしい。

姫: その構造を壊して、本当に平凡な高校の出身者(ただし色々特殊技能は持っている)が国際的謀略に巻き込まれてしまう、というのがアンブラー作品の特徴と言えます。その中でもひときわ異彩を放っているのが、この『真昼の翳』という訳ね。

咲: やっと本編あらすじに辿りついたか。簡単にまとめよう。

姫: イギリス軍人の父親と、エジプト人の母親の間に生まれた主人公アーサー・シンプソンは、いまはギリシャで胡散臭いガイド・タクシー業を営みつつ、三流ジャーナリストとして売文に勤しんでいた。そんな彼はドイツ人のお客を空港で捉まえるが、ちょっとしたサイドビジネスを見抜かれ、脅迫を受けてしまう。

咲: ドイツ人は「刑務所に入りたくなければ、一台の車をギリシャからトルコまで運ぶ仕事を手伝え」と指示。しぶしぶ旅立ったアーサーだったが、一体自分が何を運ばされているのか、ひょっとして麻薬か?という疑いを抱き、こっそりとトランクをこじ開ける。ところが、中に入っていたのは機関銃に催涙ガス弾などなど、武器の山だった。果たしてドイツ人たちの目的とは? そしてアーサーは無事ギリシャに変えることが出来るのか?

姫: このアーサー(・アブデル・シンプソン)という主人公が、まったくの小悪党なのが楽しいわね。まっとうな小市民とは程遠いけれど、でも大きな犯罪を行なって刑務所入りの危険を冒すほどの悪党でもない。自分よりも強い奴には表では諂っておいて、裏で舌を出している、面従腹背男。

咲: そんな彼が、ちょっとした盗みをきっかけに国際的謀略に巻き込まれていくわけだ。なんてことを言いつつも、この作品を読んで行く中で思い出したのは、謀略小説というよりも、例えばドナルド・E・ウェストレイクのようなクライム・コメディだった、というのは突っ込んで考えてみてもいい事案かと。

姫: そうね。この作品の本質って、「既存の冒険小説(自作含む)のセオリーをひたすら外して行く」ことにあると思うのね。主人公からして、チョイデブチョイハゲのおっさんだし、そもそもパスポート不備があってトルコの国境を越えられないまま、警察に武器を発見されてしまうとか、お笑いでしょう。

咲: それ分かるな。主人公はトルコ警察高官の命を受けて逆スパイのようなことをやらされる羽目になる。通信手段は穴だらけ、高官がありえないと一蹴した主人公の仮説が事態にピタリとはまって行ったり、対する敵方も大分間抜けだったり。言われてみれば、ジャンルパロディ的な要素が強い作品だったね。

姫: お宝を巡って、ドタバタ騒ぎを繰り広げるアメリカン・クライム・コメディを想起させるのも当然なのかもしれないわ。その手の小説だと、カール・ハイアセンの諸作やフレッド・ウィラード『ブードゥー・キャデラック』あたりが雰囲気近いような。フロリダ・おバカコメディ(でもちょっとシリアス)と、イギリスの真面目な作家を結び付けようなんて、冒涜っぽくて素敵ね。

咲: 確かに(笑)。本項の結論としては、アンブラーをこの作品だけで判断するのは難しい、と言いたい。むしろ彼のシリアスな作品をいくつか読んでから読むべき作品だったかもね。

姫: 冒険・スパイ小説をあまり読んでいない人がこの作品を単発で読んでも、パロディだということそのものが理解困難なので、オススメできません。内容は悪くないけれど、まあ、所詮はパロディよね。結末はかなり弱いです。

咲: ということで、アンブラーはお終い。次行きましょう。


○換骨奪胎されたスパイ小説

姫: 二作目は『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963)。贅言不要、必読の一冊ね。


寒い国から帰ってきたスパイ (ハヤカワ文庫 NV 174)

寒い国から帰ってきたスパイ (ハヤカワ文庫 NV 174)

咲: そんなんじゃ誰も読んでくれないので、もう少し説明します。とはいっても非常に有名な作品で、作品論も無数に存在するだろうから、屋上屋を架すような内容にしかなりようがないのだけど。端的に言えば、先の『真昼の翳』がスパイ小説の「戯画化」だとすれば、この『寒い国から〜』は、スパイ小説とおなじ題材を扱ったまったく別の何かです。つまり「換骨奪胎」といったところだね。

姫: これまで書かれてきたスパイ小説の多くは、プロにせよアマチュアにせよ「一人の」主人公が、仲間たちのサポートを受けながら陰謀に立ち向かうという、いわゆる英雄の物語だった(パロディである『真昼の翳』もそう)。でも、『寒い国から〜』は違う。視点人物であるリーマスが一応の主人公的立場だけど、彼は緻密に組み上げられたスパイ活動の一部でしかないし、彼自身、ミッションの全貌は把握していない。

咲: 言いかえれば、リーマスは東西対立の一局面というチェスボードに乗せられた、交換可能なコマのひとつでしかない。コマに感情は要求されないし、王を詰めるという目的のために必要とあらば、簡単に犠牲にされる。もちろん、リーマスは人間であってコマではない。ミッションのためとはいえ、使い潰されていいような存在じゃない。その二つの立場の相剋を、鋭利で抑制的な文章で描きぬいたのが、この作品だ。

姫: 実際、この作品はものすごく短い。全貌の見えないミッションが進行していく中で、リーマスの測りがたい人間像を間接的に、執拗に描きこんで行く。その流れで浮かんでくる様々な違和感がすべて伏線になっていて、後半、一気に全体像が立ちあがり、同時に作品のテーマである「スパイはコマか人間か」という問題がフィーチャされていく……という濃厚な物語をわずか330ページでまとめるなんて、信じがたいわ。

咲: 不明点が埋まって、ミッションの真実の姿が明らかになって行く終盤は本格ミステリ的なカタルシスでもあると思う、という話は偉い人がどこかで言っているのじゃないかなと思うけれど、これは本当に素晴らしい。無駄を削って物語のコアを抉りだして行く手法がぴったりはまっている作品。それでなお、リーマスに感情移入させてくるんだから壮絶だ。普通、無駄を削ったらそういうところから亡くなるものだと思うけどねえ。

姫: ねえ、いまさらだけどあらすじ紹介する? なんかぼけちゃいそうな感じで気が進まないのだけど。

咲: いわばミッションが丸ごとプロットに載っかっているようなもので、複雑すぎるし、何を書いてもネタバレになるな。もういいんじゃないか。

姫: OK。では、最後に一言。不朽の名作、贅言不要、必読の一冊。スパイ小説古臭い、なんて言わずにみんな読みましょう。

咲: おいおい、この1000文字くらい一体何だったという気になるから止めてくれ。


○「再話」されたスパイ小説

姫: さて、三作目は『不死鳥を倒せ』(1965)ですが……


不死鳥(フェニックス)を倒せ (ハヤカワ・ミステリ文庫 21-1)

不死鳥(フェニックス)を倒せ (ハヤカワ・ミステリ文庫 21-1)

咲: さすがにスパイ小説三作連発したら食傷気味ですワ。あっさり気味でいきましょ。

姫: ではさっそくあらすじで。

咲: 凄腕の諜報員クィラーは、ベルリンでの任務を終え、帰国の途に就こうとしていた。ところが滞在の最終日、歌劇場で新たな任務を言い渡される。はじめは断ろうとするクィラーだが、ターゲットがハインリヒ・ツォッセンと聞いて目の色を変える。かつてのナチ親衛隊大将、残虐非道の行いを重ねながら、戦後行方をくらましたツォッセン。クィラーは彼を目の前にしながら逮捕出来なかったことを今も悔い、憎悪の炎を燃やしていた。

姫: 護衛を置かず、自分ただ一人の姿を晒すことで、闇の中から敵を引きずり出そうとするクィラー。ところが捜査を進めるうちに、ツォッセンがいま姿を現した意味が明らかになって行く。ヒトラーを崇拝し、ナチ再興を画策する秘密組織<不死鳥>が蠢きを見せるベルリンで、孤軍奮闘するクィラーの明日はどっちだ!

咲: 単純な比較にならないというのは理解しているつもりだけど、ル・カレを読んだ後に読んだためか、恐ろしく幼稚に感じてしまう。作戦上の必要とは言え、一人で敵の中に飛び込んでいくヒロイックな主人公、秘密暗号やら特殊戦闘技能やらいかにも「スパイ」的なギミックの数々。ジェイムズ・ボンドの類型としてのスパイフィクションには飽きた。

姫: ル・カレについては、もはや別種の作品として区別して評価すべきなんでしょうね。さておき、この作品を端的に「007ブームに乗っかった、時代の産物」と読み捨ててしまうのは、もったいないような気もする。注目すべきは、クィラーという人物の造形そのものでしょう。ひたすら頭を働かせて最善の道を取ろうとする。銃は持ち歩かない、無闇に暴力もふるわない。追いつめられた時にも、思考の果てに紡ぎ出した「動くべき瞬間」にしか動かない。行動することで強引にでも物語を動かして行くタイプの主人公とは、大分毛色が違うわね。

咲: ようするに頭脳派ってわけだ。まあ、頭脳派っと言っても、何か失敗するたびに「これは<頭脳思考>ではなく<腹部思考>がウンヌンカンヌン」って言い訳するけどね。瞬間的な危機回避とか、思わず美女に惹かれてしまったとか、要するに人間の本能的な部分を<腹部思考>って呼んでる訳だけど、クィラーさん意外と多いよ、これ。

姫: そこは御愛嬌だし、むしろ彼の人間臭さを現わしているといってもいいと思うわよ。ひたすら思考し、たまに失敗して言い訳しつつ事態の核心に確実に迫って行く姿は、普通にエンターテインメント作品として面白いと思う。あと、敵のボスを追いつめなければならないその動機が、憎悪、そしてそれ以上に悔恨であるというのもオリジナルかな。単純にナチ憎しじゃなくて、あの日の奴を止められなかった自分への情けなさみたいなものが、時にクィラーを牽引し、時にクィラーの足を引っ張るというのは好き。

咲: ただ、物語全体の動かし方が、どうにも類型的というのは否定できないかも。主人公その人や、その動かし方が独特でも、物語そのものは「どこかで見たことのある」既存の枠を越えるものではないような気がして。

姫: そのマンネリ感も含めて、この作品がエンターテインメントとして成立する構成要素のような気もするけどね。勧善懲悪ストーリーに留まらず、主人公の中に葛藤があって、単純なヒロイック・ファンタジーで終わっていない。むしろ、「ジェイムズ・ボンド」という役柄を、より現実的な登場人物に置き換えて「再話」したと考える方が分かりやすいのでは?

咲: 言いたいことは分かるんだけど、正直50年後に読まなきゃいけない作品かと言うと弱いと思うんだよね。この『不死鳥を倒せ』を読んでも、正直何も得るものがない……つまらなくはないけど、この50年間でもっと面白いエンタメ作家いくらも出てきてる訳だし、ホント、当時のスパイ小説盛り上がってましたという空気を感じたい人は読むべし、でも別に無理に読まなくてもいいよ、という程度の

姫: 手厳しい、というよりも「本当にちょっと面白かっただけ」という感じね。分からなくはないけれど。


○反省・次回予告

咲: まとめたら各作品の内容が投げやりになったな……。ほぼ狙い通りだけど。スパイアクションはしばらくやりたくない。

姫: 咲口君としては、今回の結論はル・カレだけ読んどけ、むしろ「スマイリー三部作」も読んどけ、なのね。

咲: 『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』は映画の『裏切りのサーカス』も良さそうだったよね。劇場に見に行ってはいないけど、DVD出たら見ようかと思ってます。

姫: スマイリー絶対あんなダンディじゃないと思うけど、素敵でした……

咲: 次回はニコラス・フリーリング『雨の国の王者』です。

姫: ついに次回でイギリス縛りが終わるのね。長かった。

咲: この時期のアメリカ・ミステリの流れも復習出来たらと思います。乞うご期待。

(第九回:了)

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ (ハヤカワ文庫NV)

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裏切りのサーカス コレクターズ・エディション [Blu-ray]

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