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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

第六回:シーリア・フレムリン『夜明け前の時』(創元推理文庫)

○可愛いお婆ちゃん?

姫: 始めましょう。そう言えば、フレムリンは2009年に亡くなったのよね。1914年生なので、亡くなった時は95歳。大往生といっていいんじゃないかしら。

咲: 訃報が流れた時に、ネットで彼女の写真を見たんだけど、すごく可愛いお婆ちゃん、という感じだったんだよね。2006年撮影となっていたので、92歳の時なんだけど感動的に綺麗なお顔だった。

姫: 中身は結構ラディカルだったらしいわね、解説曰く。まあ、その辺は興味のある向きに見てもらうとして。ちなみに今回レビューする『夜明け前の時』(1958)は、フレムリンのデビュー作です。

夜明け前の時 (創元推理文庫)

夜明け前の時 (創元推理文庫)

咲: あ、ところで今気が付いたんだけど、ここまでレビューしてきたエドガー賞受賞作って一人目のシャーロット・ジェイ(オーストラリア人)を除いて、全員アメリカ人作家だったのな。フレムリンは初のイギリス人作家。

姫: やっぱりMWA賞はアメリカ人作家優先とかそういう面があるのかしら。

咲: 偶然でしょ。それ言ったら次回のシモンズもイギリス人だし。いずれ統計でも取ってみるか。さて、駄弁はさておき、早速あらすじに移りますか。

姫: ロンドン郊外の閑静な住宅街で、夫、二人の娘(8歳、6歳)、そして生後数か月の息子と一緒に暮らす主婦ルイーズが主人公。経済的にはまずまずの生活を送っている彼女だけど、最近は息子の夜泣きに悩まされている。やっと寝入ったと思えば、2時に起こされ、3時半に起こされ、ようやく泣きやんで4時。夫と娘たちの朝の身支度を考えれば、もう2時間と寝る猶予はない。眠気を抑えつけながら家事に子育て、近所づきあいに奔走する彼女は、誰にも頼れないまま、精神的に緩やかに壊れていく。

咲: 彼女の家で中年の女教師ミス・ブランドンが下宿人として暮らし始めたのは、そんな三月のことだった。悪条件にもかかわらず、文句ひとつ言わず穏やかに生活する彼女に、逆に不審を感じつつも余裕のない生活にちょっとした思いも忙殺されるルイーズ。しかし彼女の登場と時を同じくして、不思議なことがルイーズの周りで次々に起こる。

姫: 息子がいつも以上に夜泣きしたと思ったら、次の晩はピタリと泣かない。気晴らしにベビーカーを押して真夜中の散歩に行けば、一瞬寝落ちした隙に息子が消える。この時は大騒ぎをした挙句、自宅のベビーベッドの中で眠っているところを発見、いよいよ自分の正気を疑うまでになってしまう。

咲: これらの事件はミス・ブランドンの仕業なのか。それにしても、その動機は? 果たして、ルイーズの周りでは一体何が起ころうとしているのか……という話。

○超絶上手い作家(主観)フレムリンの本領発揮

姫: フレムリンって作品数の割に訳書が少ないわよね。長編は今回の『夜明け前の時』『泣き声は聞こえない』『溺愛』、あと『死ぬためのエチケット』という短編集があって、全部で四冊。私は今回のレビューのために一冊目だけど。

咲: はっきり言って全部読むべき。特に短編集『死ぬためのエチケット』は、プロットで統御する理詰めの部分と、男女の微妙すぎる機微を切り出したエモーショナルな部分を非常に上手いこと組み合わせた匠の仕事。老夫婦の間に過ぎ去った年月が歪めた意地が夫に恐ろしい決断を迫る傑作短編「高飛び込み」はオールタイムベスト短編のひとつです。

姫: 『夜明け前の時』しか読んでいない私が言うのもなんだけれど、フレムリンの作品からはどこまでも日常的な、「ひょっとしたら私の身の上にも似たようなことが起こるかもしれない」という恐れがひしひしとにじんでいるように思う。

咲: まさにそれ。あまりにもありふれていて、下手を打てば陳腐になりかねないテーマを昇華して、読者から近からず遠からずの間合いを外さない、超絶上手い作家だよ。

姫: 『夜明け前の時』のテーマは「日常への闖入者」だけど、サスペンス小説としてはありがちよね。以前紹介したアームストロング『毒薬の小壜』http://d.hatena.ne.jp/deep_place/20120624/1340556853 なども、一部その要素があったわ。

咲: 確かに「日常への闖入者」はありがちなテーマだけど、フレムリンはそこに二重三重にテーマを重ねている。第一はもちろん「子育て疲れ」。しつっこくディテールを重ねて疲弊しきったルイーズの状況を異様にリアルに描くことで、当然子育てなんてしたことがない俺にさえも、母親の絶え間ない辛さと、それでも止めるわけにはいかないジレンマがひしひしと伝わってきたよ。ここは作者自身の経験談が生かされている部分らしい。

姫: 従姉が買い物に行く間だけ生後半年の甥っ子を見てたことがあったけど、あの地獄のような時間が終わらずに続くなんて、考えただけでも死ぬ。投げたし。

咲: 何を投げたの? 赤ん坊? 流石は鬼なの?

姫: 今咲口君を投げようかしら。窓から。

咲: ブルブル えー、第二テーマは「無理解な近所の眼」です。郊外の住宅地では、ご近所のおしゃべりなおばさま方や、同じように子どもを育てている母親たちと必然的に触れ合うことになる。その中でルイーズは絶えず情報を流しこまれ、あるいは自分の情報が他人に流出していくのを止めることが出来ない。

姫: 「あの奥さん子供の夜泣きがひどくて精神衰弱になっているみたいヒソヒソ」「旦那さんもちっとも協力してくれなくってヒソヒソ」「子供のしつけも行きとどかないなんてヒソヒソ」……の無限ループね。悪意はない(らしい)けれど、真綿で首を絞めるように、人間をじわじわと殺すおばちゃんたちの噂話……。

咲: ハイスミスはこのテーマの達人で、とにかく頭の悪い隣人が死ぬほど嫌いだったんだろうな、と想像させる。「正しいことをしているはずなのに、誰も話をきちんと聞かずに、噂話だけで僕を判断していくグボワァア」みたいなキャラクターを書かせたら天下一品だ。

姫: これらの三つのテーマが絡まり合うことで、それぞれの弱さを補いながら、結果的にプロットを最初から最後まで一本線で統御している。デビュー作でこれだから末恐ろしいわね。ただ、締めの部分だけは若干浮いているような気もする。ここまで日常性とそこからの緩やかな破綻を描いていたはずなのに、突然狂気が噴出するのはいかがなものか。

咲: 実は後年の『溺愛』(1969)も同じような問題点を抱えているんだ。溺愛していた息子が連れてきた娘に嫉妬しまくる母親の話なんだけど、やはり途中で情念が噴き出し過ぎて、完成していたはずのプロットがぶれてしまう。長編作品で理と情を両立させることの難しさを物語っているな。

姫: そこはエルロイぐらいの腕力が必要と。プロットをグリップしつつ、自分の思い通りの方向に捻じ曲げてしまうぐらいの力技がね。

咲: エルロイとフレムリンが同一レビューの中で語られるなんてここくらいだろうな。この二人は方法論がまるで違うから単純な比較論は無理だけど、フレムリンの手法が力技が程遠いというのは間違いない。彼女の場合はむしろテーマの絡み合いの中で、プロットが自然に上手い方向に縒れるといった感じだろう。それが最高の形で成功しているのが、さらに後年の『泣き声は聞こえない』(1980)。期せずして11年に一作なのが楽しい。

姫: 15歳の女の子が一夜の誤ちによって妊娠するも、中絶。しかし少女は買っておいたマタニティウェアに枕を詰めて、まるで妊娠しているように見せかけて街を彷徨する……とあらすじにあるけれど。

咲: 「羞恥」「執着」「嫉妬」がぐっちゃぐちゃに絡まりあった結果、噴出する狂気さえも統御し、どんでん返しを入れ、さらにはシニックな結末に落とし込むことに成功した傑作。桜庭一樹の称賛帯付きで新装版が数年前に出たね。「俺が」フレムリンの後年の作品をもっと読みたいので、各出版社、特に東京創元社の方はぜひ検討して下さいませんか。

姫: 必死すぎワロタ。

咲: 姫川さんは読んでからコメントするように。


○成長株のデビュー作はどう評価したものか

姫: 結局、咲口君はこの作品をベタベタ褒めな訳だけど。

咲: ですです。

姫: 私としては、やはり終盤のプロットのブレが気になるのよね。佳品のなり損ないみたいなそんな感じが否めない。「傑作」を頂いた『泣き声は聞こえない』は250ページくらいで手軽だから、今度読んでみようと思ったけれど。

咲: 確かに、『夜明け前の時』単体では、傑作とは言えないかも……ただ、もうひとつ評価すべきポイントがあるとしたら、それはフレムリンがあまりにも「日常的な世界」のサスペンスを描いたということだ。主婦の日常生活の延長線の上で、世界そのものに追いつめられ、食いつぶされるような破綻の感覚を、この年代で知覚し作品として結晶出来た類まれな先進性は評価したい。

姫: それと同時に、単純な歴史的意義に留まらない普遍性を湛えた作品である、というのも大きいわね。分かりました。ではこうします。 「日常生活の中のサスペンス」を巧みに切りだし、複層的なプロットを、若干の破綻はあるものの描ききった、先々が楽しみなデビュー作。 まあ、先もなにももう亡くなっているけれどね。

咲: これは読まないという人も、ぜひ短編集『死ぬためのエチケット』や『泣き声は聞こえない』に手を伸ばしてみて下さい。多分どっちもまだ新刊で買えます。よろしく!

姫: はい、次回はジュリアン・シモンズ『犯罪の進行』です。

咲: 堅そうなタイトルだな。もうやる気がなくなってきた。

姫: 読んでも見ないうちから諦めないの! 頑張りましょう。

(第六回:了)


泣き声は聞こえない (創元推理文庫)

泣き声は聞こえない (創元推理文庫)

死ぬためのエチケット (創元推理文庫)

死ぬためのエチケット (創元推理文庫)