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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

第五回:エド・レイシイ『ゆがめられた昨日』(ハヤカワ・ミステリ文庫)+スタンリイ・エリン『第八の地獄』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

○先週お休みでしたけど

咲: 言い訳なしで始めます。今回は先週分も含めて二本立てで行くよ。

姫: あくまでも週一本の形式は崩さない、とそういう風に考えているのね。

咲: どうもそうらしい。これが吉と出るか凶と出るか。

姫: では早速。一つ目の『ゆがめられた昨日』(1957)は、「黒人」の私立探偵が主人公であること、彼が受ける差別の問題がフィーチャーされているという点で(発表年代を鑑みれば)非常に先進的ね。ちなみに、黒人のキャラクターが主体的な役割を果たすミステリ作品というと、チェスター・ハイムズがエドとジョーンズの黒人警官コンビを登場させた『イマベルへの愛』エド・マクベインが87分署で黒人警官の活躍を書いた『ハートの刺青』の二作も同年となっていて、不思議な因縁を感じるわね。

ゆがめられた昨日 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ゆがめられた昨日 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

咲: さてあらすじをば。主人公のモーアはうだつの上がらぬ私立探偵。碌な稼ぎもなく、付き合っている女にも愛想を尽かされそうな、浮草人生を送っていた。しかしテレビ局のプロデューサーから、ある男を見はって欲しいと依頼されたことによって、人生が大きく狂い始めることになる。

姫: かつて殺人を犯し、刑務所から出てきたばかりだというその男を、それなりに真面目に見はるモーアだったけれど、彼が目を離した隙を突かれてその男は何者かに殺されてしまう。しかも、現場に無理やり踏み込み、出くわした警官を殴ってしまったことで、モーアは第一容疑者と目されることに。

咲: この殺人事件を解決しなければ、自分が犯人ということにされてしまうと考えたモーアは、謎解きの出発点として、被害者がかつて犯したという殺人について調査することを思い立つ。ニューヨークを脱出し、殺人が起こったという田舎町に辿りついたモーアは、「黒人」に集まる微妙な排斥のにおいを察知する。

姫: と、ここまで時系列に語ってきたけれど、実は物語のスタート地点はここよ。過去の部分は、唯一モーアに協力してくれる黒人の娘フランシスに対してモーア自身が語った内容となっています。果たしてモーアは自分をはめた真犯人を捜し出し、自由の身を取り戻すことが出来るのか?

○レイシイとレイシズム

咲: こう、あらすじだけ取り出してみるとなんとも面白そうな内容だけれど、物語的には正直言って微妙。現在(三人称)→(三日前→二日前→昨日)(モーアの一人称)→現在(三人称)と、語りの形式/順番をいじったりしているけれど、これ特に意味はないよね。

姫: まず「黒人差別」のありようを三人称で見せてから、一人称で事件の概要を語ることで、印象を強く打ちだそうとしているとか、そういうことではないかしら。作者の後年の作品『さらばその歩むところに心せよ』では、この「語り方そのもの」が読者のミスリードを誘うトラップになっていて、サスペンスフルな物語を構築する上で欠かせないものになっていたわ。でも、今回の『ゆがめられた昨日』では、まだプロットと緊密に結びついてはいない。

咲: そのプロットについても問題がある。そもそも、モーアが田舎町に行ったのは、殺人事件の謎解きに必要な情報を得るため、そしてニューヨークの警察に捕まらないように時間を稼ぐことだったはずだ。ところが、手がかりは何一つ得られず、おまけにニューヨークに戻っても、別に追われているようには見えないじゃないか。ほんと、時間の無駄というか。

姫: これこそ、作者の志向が謎解きやスリル・サスペンスにないということの証左でしょうね。手がかりはまったくない、という訳ではないわ。でも、作者が書きたいのはむしろ、NYではまず見られない「黒人であるために入れない」レストラン、黒人だけが寄り集まって暮らしている隔離地域、差別反対論者の白人の青年との対話なんでしょう。

咲: フィクションの中で、そういった「負の要素」と正面から向かい合うことはかなり難しいことだとは思うけれど……

姫: なにか不満でも?

咲: いや、現代ならもっと強烈な作品がいくつもあるということ。あまりにも強烈過ぎて殆ど戯画化した深南部の白人至上主義村落を描いたジョー・R・ランズデール『罪深き誘惑のマンボ』(1995)公民権法制定直前の黒人の労働問題を、同じく黒人弁護士の視点でえぐりだしたアッティカ・ロック『黒き水のうねり』(2009)あたりを読んだ後にレイシイ作品を読むと、あまりにも微温的で物足りなく感じる。あとは、ネタバレなんで書けないけどアレとかコレとか。

姫: うーん、やっぱり状況の変化は大きいわよね。同時代には書き得なかったことというのは必ずあって、それが今では書けるようになった。その点は考慮してあげないと不公平な感じが残るわ。あ、それからニューヨークと田舎町で、黒人の取り扱いがまったく異なっていたことは、この作品で初めて認識したこと。比べてみると随分な違いがあるものなのね。

○結末に残された不穏

咲: レイシイ作品を語る上で必ず出てくる「弱者へ向ける優しいまなざし」というのも、こと『ゆがめられた昨日』においては、よく分からない。特に結末は謎。事件解決後、モーアは私立探偵として大いに名を上げ、テレビ出演のオファーすら入るようになる。でも彼は、すべての名誉を捨てて郵便配達人になると言いだす。それを理解してくれない今の女とは別れ、自らの理解者であるフランシスを迎えに行こうか、と考えるところで幕が下りる、というラスト。

姫: 「今の女」というのは、根なし草のモーアを見棄てず、定職につくように励まし続けた女性よね。探偵として成功し、食うや食わずの生活を脱したのだから、それを突然手放すことを理解できないのは当然。モーアが彼女を捨ててフランシスと結婚しなければならない理由は一体? いいえそもそも、なぜ「いまになって」、モーアは成功とは無縁な方向に人生の梶を切ろうとするのかしら?

咲: ここから先は、完全に妄想なんだけど。図式としては「探偵としての人生=肌の色が薄く、白人社会で自立した女性(=元カノ)との結婚=白人社会への参入」に対して「郵便配達人としての人生=肌の色が濃く、黒人だけの社会に生きてきた女性(=今カノ)との結婚=黒人社会への残留」と立てよう。フランシスのお父さんは郵便配達夫であるという設定もこの図式に拍車をかける。

姫:レイシイは、「黒人」である主人公モーアが「白人の側」に分かりやすく回収されそうになる寸前のところで、彼を「黒人の側」に残した? そういう二極分化は、さっき見たような「差別をなくそうとする方法」から最も遠い考え方だし、もしそうなら「優しい視線」がどうこうという話にはならないんじゃないかしら。

咲: レイシイが「差別をなくそうとした」なんてどこに書いてある? レイシイにとって大事なのは、黒人に降りかかる「差別を直視する」こと(実際、作中の「黒人差別をなくそうとする白人論者」は現時点では「机上の空論」を語っているに過ぎない)だ。そして「『白人の世界に溶け込んでいかない』という選択肢を(無意識にか意識的にか)選ばざるを得ない」モーアは、当時の感覚としてはリアルなんではないかな。

姫: むむむ。なるほど……つまり咲口君の結論としては、 (発表年代を勘案に入れれば)黒人差別の実態を誠実に描きだした作品、 という風になる訳ね。

咲: あくまでも(発表年代を勘案に入れれば)ね。当時の人々の精神世界を理解しようとするなら読んでおいたほうがいいだろう。だが、この座談で測るべきは「エンターテインメントとして」読むべきか、というポイント。その点からすれば、退屈な作品だ。

姫: 今現在では取り立てて読む価値なし で?

咲: OK。「面白さ」を犠牲に社会派に切り込んだ割にはラディカルになりきれていないのが最大の問題点だな。当時としてはこれが限界だったにしても。

○エリンの地獄めぐり

姫: 二つ目の『第八の地獄』(1958)もまた、私立探偵が主人公の小説。今度は白人の中年男性だけど、決してスーパーヒーローではない、ごく当たり前の男である、というのがポイントね。

第八の地獄 (ハヤカワ・ミステリ文庫 36-1)

第八の地獄 (ハヤカワ・ミステリ文庫 36-1)

咲: ではあらすじをば。主人公で探偵社社長のマレイ・カークは、ある時警察の汚職事件に関わる調査を依頼される。依頼人の警官ランディーンは、賄賂など受け取っていないのに、周りの汚職警官一斉逮捕に巻き込まれて一緒に告訴されてしまったという。だが、状況を見るに彼は限りなくクロだった。被告側弁護士の熱心な語りかけ、そしてランディーンの恋人ルースの美貌に心を動かされた主人公は、調査を引き受けてしまう。

姫: カークは、いわゆる「私立探偵小説」の形式に則って、ひたすら体当たりで聞き込みを続けるが、その過程で、みるみるルースに惚れこんで行く。「彼女の役に立ちたい→それは彼女の恋人を救うことに他ならない→探偵としての勝利=恋の喪失」という図式にはまってしまったカークは、あくまでも誠実に調査を進めつつ、実らぬ恋に苦悩する。

咲: 調査を進めれば進めるほど濃くなるランディーン有罪の可能性。そして、ギャングの親分が提示した「決定的な証拠」は、カークの心を大きく揺り動かす。果たして、事件の真相は。そしてカークの恋の行方は何処か?

姫: という話ではあるけれど、特に中盤の話が全く進まず、ひたすら話を聞いて回るだけのパートは厳しいわよね。読むのをやめようかと思った。

咲: でも、むしろここがこの作品の見どころなんじゃないかな。ダンテの『神曲』では、「悪意者の地獄」であり、「悪意を以て罪を犯した者がそれぞれ十の「悪の嚢」に振り分けられる」とされている「第八の地獄」。そこは「ウソつき、おべっか使い、汚職官吏、大道易者、ねこかぶり、ぬすびと、ぜげん、ぺてん師」などなどありとあらゆる「悪意」が集められたゴッサムシティ。その地を現代のニューヨークになぞらえるだろ。そして、マレイ・カーク(ダンテ)が、探偵社元社長のコンミー(ヴェルギリウス)とともに、ルース(ベアトリーチェ)への報われぬ恋と、同時に正義を求めて彷徨う物語と解く。

姫: そういう文学的な遊びが、「街の人間たちと話をする」というテーマ、そして物語の根幹に絡んでくるということなのか……随分と考えこまれた仕掛けね。まあ咲口君は、詳しいように見せかけて、どうせウィキペディアかなんかで即席の勉強をしたんでしょうけれど。

咲: さすがにばれてるか。

姫: 悪者たちとの対話の中で軽妙洒脱なトークが迸るようであれば読みやすかったんだろうけれど、トーンも暗いしそういうのは無理。であれば、あの重苦しさも仕方がない、の範疇に入るのかしらね。

咲: それを重苦しいと取るか重厚と取るかは読者の趣味次第だろうね。

恋する探偵の末路

姫: それよりなにより、カークの恋がどうやらいう内容の方が私としてはダメね。

咲: 姫川さんぶっちゃけましたね……そこを褒めている人が何人もおるんですが。

姫: 恋する探偵」っていうのは、「思い込みから視界が狭くなって、読者にとってもミスディレクションとして機能する」という古典的ガジェットじゃない。方法論としては、エリンもそのレールは外さない。その時に「逆に」ストーリーをどういう風に過去の類型から外して行くかというのが評価のポイントになるわけよね。

咲: 仰せのとおりで。

姫: いい年こいたおっさんが恋に迷って苦悩する、というのはまあいいわ。でも、女が言うこと聞かないからと言って、暴力→泣き落としはダメダメよね。童貞か。

咲: うぐう。

姫: この手の「恋する名探偵」を使った作品の一番理解しがたいところは、恋をする対象であるルースに、どう考えても魅力がないということなのよね。この作品におけるルースもそう。美人で学校の先生で、というぐらいしかプロファイルがなくて、かといってたとえばランディーンへの深い愛情を示す、みたいな彼女の内面に迫る要素もほとんどない。確かに「恋は盲目」というけれど、カークがどうして彼女にそこまで惚れてしまったのか、という点について、読者の理解が全く追いつかない。というかカーク自身、よく分かっていないんじゃないかしら。

咲: うーん、確かにカークと比べてもルースの掘り下げは随分浅いよな。それは、他のキャラクター全般にも言えることだけど。

姫: カークはものすごく自分勝手なのよ。「俺はルースのことが好きなんだ」という前提があって動いているから、事件を間違った方向に誤導し、友人も失う結果になる。物語のラストでは、二人の結末は敢えてぼかしているけれど、たとえ結婚したり、そういうルートに至ったとしても、この二人絶対不幸になるわね。カークという男の底の浅さを、そういう風に書いたエリンはやっぱりすごい。

咲: あ、れ? なんか褒めてない? 最初ダメって言ってましたよね?

姫: あら、「カークの恋愛」はゴミよ。ただし、「ゴミでしかない『カークの恋愛』」を、単純なガジェットとしてだけでなく、「自分勝手な男」という要素の中で物語として昇華する手筋は巧みよね。いい恋愛小説かどうかは、私の判断できる部分ではないわ。

咲: 素晴しく牽強付会な褒めだな。ふと思い出したのが、マージェリー・アリンガム『クロエへの挽歌』。これもまた、妻に惚れてしまった名探偵が、夫の無実を証明するために捜査を行うという話。同様に彼女が一人で残ったアパートメントに踏み込むシーンがあるけれど、扱い方は若干違うな。男性作家と女性作家の違いなのか? 恋愛小説識者の意見求む。

○長々ご苦労様でした

姫: 個人的には、中盤の文学ネタが分かって、少し評価が上がった感じ。

咲: こちらは、終盤の恋愛要素が滅多打ちにされて少し心が痛いです。

姫: 褒めてるでしょ?

咲: ゴミですいません。

姫: 結論としては、 地味ではあるけれど、悪の世界ニューヨークを重層的に描き、人間心理の深みをじっくりと暴いた良作 といったところかしら。

咲: エリンはまともに買える長編が一つもないのが問題だよね。短編のオーソリティであることは確かなんだけど、機会があれば、後年の『鏡よ、鏡』と合わせて読んでみて下さい。

姫: 次回はシーリア・フレムリン『夜明け前の時』です。

咲: 赤ん坊の夜泣きが聞こえる……お楽しみに。

(第五回:了)

さらばその歩むところに心せよ (1959年) (世界ミステリシリーズ)

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鏡よ、鏡 (ハヤカワ・ミステリ文庫 36-3)

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