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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

第四回:シャーロット・アームストロング『毒薬の小壜』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

○まずはあらすじを

咲: 始めます。

姫: みるみる無愛想になっているわね。新規のお客さんが非常に入りにくいと思うのだけれど、その点についてのご意見は?

咲: 新規のお客さんってなんです?

姫: 切り替えて、今回の対象作品『毒薬の小壜』(1956)のあらすじを説明しましょう。以下こんな感じ。

毒薬の小壜 (ハヤカワ・ミステリ文庫 46-1)

毒薬の小壜 (ハヤカワ・ミステリ文庫 46-1)

咲: 主人公は、大学で詩学を教えている大学教授ギブソン氏。50歳を過ぎても独身の彼は、かつて世話になった老教授の葬式で彼の娘ローズマリーに出会う。病弱な彼女を手伝い、老教授の遺稿の整理を進めるうちに、ギブソン氏は実の子どもほども年の離れた彼女に結婚を申し込む。

姫:新婚生活の中で日に日に健康を取り戻して行くローズマリーを祝い、フレンチレストランで奮発した帰り道、交通事故が二人を襲う。ローズマリーは奇跡的に無事だったけれど、ギブスン氏は足を骨折、杖をついての不自由な生活を強いられる羽目に。二人きりの生活に不安を感じた氏は、妹のエセルを呼び寄せ、一緒に生活してもらうことにする。しかし、このことが彼の人生を大きく捻じ曲げていくことに。

咲: 3人の生活の中で、ギブソン氏とローズマリーは徐々に疎遠になっていく。健康になったローズマリーは、「歳取って故障している私」を見切り、不倫しているのではないか。もしそれが本当なら、若く未来あるローズマリーのために自分は身を引くべきではないか。離婚で話が片付かないなら、自殺するしかない、いやそれが運命なのだ。そう考えたギブソン氏は大学の化学研究室から毒薬を盗み出す。

姫:ところが、氏はふとしたことから毒薬を入れたオリーブオイルの小壜をバスの車両に置き忘れてしまう。誰かが知らずにこれを使ったら人が死ぬ、その可能性に愕然としたギブソン氏は、必死の覚悟で毒薬の小壜を探し始める。


○「心暖まるサスペンス」か?

咲: 再読してみて、やはりいい話だなと実感した。表紙裏のあらすじにある「心暖まるサスペンス」という文句が、しっくりくる。

姫: そうかしら? 私も再読したけれど、その文言にはどうも違和感があるのよね。この作品のポイントは本当にそこにあるのか、再検討が必要だと思うわ。

咲: 受けて立とう。具体的にはどこから攻めるんだい。

姫: 第一点は、ギブソン氏という人物に見える幼児性について。彼がついにローズマリーに求婚するシーンを見て頂戴。ローズマリーは、男性にとってもっとも分かりやすく「妻」という幻想を載せることのできるキャラクターよね。「自分にしか真の価値が分からない(はず)」「自分が世話をしてやらなければならない」「儚げで、その実芯が強くて、貞淑」「男の在り方を邪魔しない範囲で、積極的に彼を助ける」。女性関係にまったく疎いギブソン氏にとって、分かりやすく「庇護欲・支配欲」をそそる「娘的」存在だったはずよ。

咲: むむ、そのツッコミはいささか心苦しいものが……さておき、結婚するにあたって、ギブソン氏はこんな風にしのごの言っているね。実際には一目惚れだった訳だが。

「これは私たちのどちらにも有利なひとつの契約だと思って下すってもいいのです」
「あなたが何とおっしゃろうと、私たち二人は現在のところ(原文傍点)友人同士です」
ローズマリーさん、私はあなたに恋してはいません。私が言っているのは惚れたはれたということではないのです。そんなことはこの年じゃあ、すこしこっけいですからね。」
「ほんとうに楽しいだろうと思います。あなたを明るいよい家に住まわせ、おいしいものをたべさせ、あなたがふとって元気よくなるのを見ていたい。それより面白いことは考えられないんです」(p.33-35)

姫: ギブソン氏の言う「こっけいさ」とはつまり、世間の人たちから、いい歳の老人が若いブロンドの女に恋をするなんて、と見下されたくない気持ちの裏返しね。物語の終盤、ギブソン氏がみんなの前でローズマリーに恋していることを告白するシーンがあるけれど、このシーンの肝は、彼が「世間の目を気にする生き方」から離れて、真の自己を確立したということにあるんじゃないかしら。マット・スカダーが「私はアル中です」と告白するシーンみたいに。

咲: なるほど。つまり姫川さんは、この作品が描こうとしたものを、毒薬の小壜が見つからないサスペンスではなく、むしろギブソン氏という人物の成長」であるという風に読み変えてしまおうというんだね。彼は55歳だから、随分と出遅れた成長な訳だが。

姫: むしろそれゆえに物語はこじれていくと考えるのが自然なんでしょうね。


○妹エセルの果たす役割

咲: となってくると、ギブソン氏の妹で、敵役でもあるエセルが果たす役割が非常に重要になってくるね。彼女は、大きな会社で秘書をやっていて、世知に長けたオールドミス。家事も仕事もテキパキとやってのけるエネルギッシュな女性だが、自分の決めたルールを人に守らせることに関しては非常に厳格で、価値観は固定的。そもそも、ギブソン氏が「ローズマリーの不倫」に気がついたのは、エセルからの助言が元になっていることも重要だ。

姫: ようするにギブソン氏にとって、エセルは「母親役」に他ならない。いくら唯一の身寄りであるお兄さんのためでも、ニューヨークの会社を辞めて家政婦になってやる、なんてあまりにも割に合わないわ。多少独善的で、考えが足りなかったにしても、世間から遠ざかって久しい彼のことをスカートの中に入れて守ってやる。そんな母親の役を、意図してか意図せずしてか、演じているのね。

咲: 彼女と対立する存在として、作者はあるグループを用意している。バスの運転手、彼が恋する看護婦、大金持ちの未亡人、変わり者の画家など、立場は違っても大切な人を「毒薬の小壜」から守りたいという気持ちからギブソン氏に付いてくる、いわば「社会」を代表する善意の集団だ。彼らと言葉を交わす中で、ギブソン氏は、毒薬の小壜を手に入れるに至った経緯、そしてエセルについてこの人たちに打ち明けていく。その中で、氏を「指導」してきたエセルの判断がいかに一面的で独善的か、あまりにも「決めつけすぎる」彼女がいかに正しくないかということが議論される。この議論は概ね正しいよね。

姫: その正しさは欺瞞だわ。いえ、実際議論そのものは「正しい」。アームストロングは「絶望した善人・ギブソン氏を救済すること」を「彼を絶望に追い込んだ要因であるエセルの推論を否定すること」で達成しているのね。でもその中で、エセルは「社会の善意」によってその「不正義」を糾弾され、社会的に「正しくない」側に押しのけられてしまう。

咲: でも、エセルが現れたことによってギブソン氏とローズマリーは不幸になったのであって、多少痛い目にあったって仕方がないんじゃないかな。

姫: そうでしょうね。たとえ悪意がなかったとしても、彼女の言葉によって事態が悪い方へと転がりだしたのは事実。反省の必要は大アリだわ。でも、そのエセルを呼び寄せたのは、そして彼女の言葉を信じたのは彼じゃない! いい、咲口君。ギブソン氏は55歳、軍務についていたことだってある、自分の人生については自分で判断を下すべき立派な成人男性なのよ。自分に都合のいい瞬間はエセルを利用しておいて、いざとなると尻尾を捲る訳? 思春期の少年が、お母さんの支配から逃れようとしているとか、そう言う話じゃないの。甘えるなジジイ。

咲: ヒイイ 僕にキレられても知らないよ。作者に言ってくれ作者に。

姫: 作中で作者は、「正しい」行為と「正しくない」明確に行為を分けてしまう。ところで、主人公が「最終的に直接向かい合うことになる敵」一人を「正しくない側」に蹴りだすのはアームストロング作品ではいくつも見られるわ。たとえば『サムシング・ブルー』しかり『風船を売る男』しかり。これはアームストロングの得意とするプロットなのかしら。

咲: 確かに、その「集団で『悪』一人を外側に蹴りだす」というのは「心暖まる」という惹句とはかけ離れているね。クレイグ・ライスの別名義作品『眠りをむさぼりすぎた男』(1942)が少し似ている。話の展開はさておき、あの作品では究極的に犯人以外の登場人物全てが「いい奴」だった事が最後に分かり、その輪に入って行けない犯人の残酷さ、哀れさが際立つという結末だった。「犯人が可哀そうだな」という思いを禁じ得ない作品だったね。

姫: 『毒薬の小壜』でアームストロングは、ギブソン氏の善性が際立たせるために、エセルに同情の余地も救いも残さない。いえ、一顧だにしないことで、読者の記憶から消し去ろうとさえする。敵役を使い尽くす容赦のなさは、尋常ではないわ。


○現代の魔女、シャーロット・アームストロング

咲: 君の意見はよく分かった。この作品は、「心暖まるサスペンス」ではなく、まずもって成長小説であるということ、そしてそれによって読者を感動させるために、作者が主人公も敵も味方も、とにかくすべてのキャラクターを利用しつくしているということ。『毒薬の小壜』を評価する時にこの二点を盛り込むべき、ということなんだね。

姫: あるキャラクターの評価を上げたり下げたりすることで、全体の印象操作を行う辺りに、作者の作家としての圧倒的な実力を感じさせるわね。さすがは現代を生きた魔女の一人。ともかく、今回の結論としては、 大人になりきれなかった男が精神的成長を果たし、社会の一員として認められるという物語を、ただ一人を犠牲にすることで感動的に粉飾した傑作 といったところでどうかしら。

咲: 異議なし。敢えて現代風に言いかえれば、「社会から目をそむけ続けてきた(しかし世間に引け目を感じている)童貞ヒキニート(55)が、生まれて初めてできた恋人ともに真の自己を確立する様を描いたビルドゥングスロマンの傑作である」と!

姫:童貞はさておき、引きこもりでもニートでもないけどね。


咲: さて次回は、エド・レイシイ『ゆがめられた昨日』です。

姫: ついに未読ゾーンが始まるのね……内容的に不安が。

咲: ま、適当に頑張りましょう。

(第四回:了)


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