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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

第三回:マーガレット・ミラー『狙った獣』(創元推理文庫)

○あらすじから始めますが……

姫: 始めまーす。
咲: 今回の対象作品はマーガレット・ミラー『狙った獣』(1954)です。僕はこの作品に限らずミラーという作家が非常に好きななので、今回の主導権は逆に姫川さんにゆだねてみようと思います。ちなみに姫川さんは『狙った獣』は?
姫: 今回初めて読みました。はっきり言って、この作品かなりすごいわね。
咲: 具体的にどうすごいか、という点についてはあらすじの後に語ってもらおうか。
姫: えー、うーん。まいいわ、とりあえずあらすじということで。

狙った獣 (創元推理文庫)

狙った獣 (創元推理文庫)

咲: 最近、遺産を相続して大金持ちになったヘレン・クラーヴォーという女性が主人公。自由になるお金がいくらでもあるにもかかわらず、彼女は安ホテルのスイートルームに一人で暮らしている。そこに突然かかってきた一本の電話から物語が始まる。
姫: 電話の相手「イヴリン」は、最初は穏やかに昔友人だった自分を思い出して欲しいと語りかけてくるのよね。ところが、途中から語調が一転、ヘレンのことを激しくなじりながら、彼女の死を予言する。ズタズタになった体、流れ出した血が、水晶玉に映っていると。単なるいたずら電話にしてはあまりにも異様な内容に不安を隠せないヘレンは、かつて父の相談役を務めていたコンサルタントの男性に助言を求める……という話ね。
咲: イヴリンの悪意は留まることを知らず、ヘレンの周囲の人物、あるいはたまたま通りすがった人物に、悪質な誹謗電話を繰り返して行く。果たしてヘレンが思い出せないイヴリンとは誰なのか、そしてイヴリンの目的とはなにか。
姫: だいたいそこまででいいんじゃないかしら、ね。
咲: さっきからわりと引っかかる言い方するよね。

○魔術師マーガレット・ミラー

姫: 咲口君、この作品について何だけど、ここでレビューをやめた方がいいんじゃないかしら。書けば書くほど未読者の興を殺ぐばかりよ。この『狙った獣』は、明らかに何の予備知識もなしに読んだ方が遙かに面白い類の作品だと思う。この作品がどういうジャンルに属する作品か、ということすら知らずにね。
咲: それでさっきから口ごもりがちだったのか。確かに、この作品は「○○○○」というジャンルの古典的な名作だし、この作品のネタを換骨奪胎した作品はそれこそ星の数ほどある。それらの作品タイトルを挙げて比較するだけで、読者は瞬間的にこの作品の根幹にあるアイデアに到達するだろうね。物語少し掘り下げて、プロットを整理するだけで、作者の狙いをバラしてしまいかねない。極めてデリケートに、それこそ淑女をエスコートするように歩を進める必要がある。難易度はかなり高い。
姫: ネタを割らない、先入観を与えないという条件でこの作品の解体に挑戦するという訳ね。お付き合いしましょ。でも、あとで悔やんでも知らないわよ。それにしても、最初の切り口くらいは考えているんでしょうね。
咲: さてね。文体論とかどうだろう。この作品に、そして日本人の読者にとって極めて幸運なことに、この『狙った獣』の訳文は極めて格調高く、原文の雰囲気をよく伝えている、らしい。原文に直に当たるほどの地力はないにしても、さわりくらいなら分かるんじゃないかな。
姫: こちとら「文体って何?」とかそういうレベルで文学オンチなんですけど。
咲: 残念ながら僕もそうだ。まあ、素人同士、とりあえず適当にしゃべってみようや。
姫: そうねえ。この作品の中で文体について話す時にまず見逃せない部分は、イヴリンが視点人物になるいくつかの章、とりわけ第6章だと思うわ。
咲: かの有名な「雨のシーン」が含まれている章だね。

建物の玄関先や日除けの下で雨宿りしている人たちが、彼女をめずらしそうに見ている。きっとみんなは、雨の中を美しい女がたった一人、はしゃいで走っていくなんてどうしたのだろうと思っているんだわ。あたしの体が雨に濡れないのを知らないのよ。あたし、防水加工なのよ。あたしが疲れもせず、息切れもしない分わけは、ほんのひとにぎりの頭脳明晰な人にしか分からない。夜の空気から、新しい燃料と、放射線を取り込んでいるのよ。(p.123)

若い女が雨の街路を傘も差さずにものすごい勢いで走り去っていく。くるくる回ったりして、テンションは怖ろしいほど高い。
姫: あまりはしゃぎ過ぎて危うく車にひかれそうになるんだけど、男の人がコートを掴んでくれて、ぎりぎり助かった後のシークエンスが怖いわね。我ながら不思議なんだけど、何がそんなに怖いのかしら。ちょっとストーカーっぽいところ?

三十秒にも満たない出来事だったが、彼女の心のなかでは癌細胞が分裂するようにひろがりだし、理性のはいりこむ余地はまったくなくなっていた。三十秒が一時間となり、赤信号は運命の岐路となり、男にコートをつかまれたことは抱擁に変わった。交わさなかった視線も、交わさなかった言葉も、思い出すことが出来た。恋人。愛しい人。あなた。美人の女。
アア、愛シイ人、アタシヲ待ッテイテ。イマ行クカラ。待ッテイテ、アナタ。大好キナ、アナタ。(p.125)

咲: イヴリンは極めて独善的な語り手で、自分にとって快であるものについて、まるでマシンガンのように思考を連続的に垂れ流している。不快なものに出会うと、即シャットアウトするか、あるいは強い悪意を吐きだして遠ざけようとしている。読んでいるだけで、彼女の歪んだ人格の発する瘴気を吸い込んでいるようだ。
姫: 何事に対しても無気力で、善意も悪意もないヘレンや、善意から彼女のことを助けようとするブラックシアが視点人物である章の文体とはあまりにもかけ離れているわ。敢えて言えば、これはミラーの仕掛けたマジックなのよ。
咲: その心は?
姫: ヘレンやブラックシアを中心に描いている章が通常運行だとすると、イヴリンの章はガリガリ異音を立てながら、無理矢理高速ギアに替えて走っているみたいなものよ。章と章の間の切り替えが全然噛み合っていない、非常に気持ち悪い。この違和が読者にイヴリンの異質さをより強く意識づけるというわけ。
咲: 重要な部分を浮き上がらせるなら、普通は太字や傍点、斜体などを使ってやるところだが、そこでミラーは文体レベルの異和を活用しているという訳か。確かに、イヴリンが視点人物の章は、さっきの雨のシーンのように強く心に残っている部分が多い。知らず知らずのうちに、刷り込まれてしまっていると。
姫: ところがまた、それがミラーの『罠』なのになっているのよ。文体を変える程度のいじりでは、読者は不思議にも思わない。だから読み進める中で「知らず知らずのうちに」ある先入観/心理的ミスディレクションを植え付けられてしまっている。終盤これらが芽を吹いて、予想外の結末に向かって読者を運び始める頃には、もはや身動き一つ取れなくなってしまっている。よくある「この話ってこうなんじゃないかと思っていたよ」という負け惜しみを嘲笑うように。
咲: 急加速急ブレーキを繰り返し読者を振り回し続ける物語を締めるに当たって、フェイドアウトしながら緩やかに速度を0に近付けていくあたりも実に狡猾だね。この非常に美しいラストシーンは絶対に忘れられないよ。

(前略)ただちょっと驚いただけ。血があまりにもきれいで、二度と結ばれることのない真っ赤な無限のリボンみたいだったから。(p.281)

姫: このあざとさ。この辺りの台詞からは、殆ど幼児退行に近いものが感じられるわね。一体この台詞が誰のものなのかは、是非自分で読んで確認して欲しいところ。それにしてもこの作品では、ミラーは読者をあっと言わせることに神経を注いでいるわね。他の作品ではどうかしら?
咲: 程度にもよると思うけれど、持てる技巧のすべてを費やして、意外な物語を提示しようとしている作品は少なくない。後年の『殺す風』『まるで天使のような』は、結末は緩やかで静かな作品だけど、きっちり騙してくるから決して気は抜けない。
姫: そのへんも読んでみなくては。そういえば、昔好きだった子に『殺す風』を読ませたとかなんとか言ってたわよね。うわーはずかしー。
咲: 黙れ、小娘。

○結論としましては

咲: しかし周りをぐるぐる回るばかりで、本質的に語ることの少ない作品だよな、実際のところ。実によく出来た作品だけど。好きだけど。
姫: 文句言わないの。正直、結論としてはこう言うしかないわね。

何も言わずに読んで、傑作だと頷いて下さい。

咲: 攻略作戦の存在意義が薄れるじゃないかー……
姫: 次回こそ内容についてがっつり語っていきましょう。で、肝心の次回は、シャーロット・アームストロング『毒薬の小壜』です。
咲: 本当にオールタイムベスト級の名作が続くなあ。ではでは。

(第三回:了)