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深海通信 はてなブログ版

三門優祐のつれづれ翻訳ミステリ。主に新刊の話をしています。そういえば、「アントニイ・バークリー書評集製作委員会」公式ホームページ。

マージェリー・アリンガム『霧の中の虎』再読に寄せて

執筆:TSATO

I

「ただの脅迫かもしれないよ」タクシーの中の男は明かるい調子で言った。

 こうして、マージェリー・アリンガム『霧の中の虎』(1952)は始まる。巧い書き出しである。のっけから「脅迫」などという単語が出てくるのにもぎょっとするが、「ただの」「明かるい調子で」という言葉と一緒に使われているのが印象的だ。読者は、タクシーの中の人物の名前も知らないうちに、彼らが「ただの脅迫」ですめば御の字の事態に巻き込まれていることを知るのである。巧みなアリンガムはこの後もすぐさま車中の人物を描写することはしない。代わりに描かれるのが、ロンドンの鬱蒼とした「霧」だ。

イギリスの裏街道で、ロンドンの町は今、『霧』と呼び慣らわされている。

 巻頭にこのような魅力的な文章を配し、読者に強い印象を与えていく。そうしてさんざんじらした後になってようやく、語り手はタクシーの中の人物達に焦点を当てる。
 タクシーに乗っているのはメグ・エルジンブロッドとジェフリー・レベットの二人。メグは第二次大戦で夫を亡くした若き未亡人、ジェフリーはその婚約者だ。二人は今ロンドンのある駅に向かっている。戦死したはずの夫の生死を確かめるために。二人は婚約して三週間ほどになるが、その間にメグの夫、マーティン・エルジンブロッドの最近のものとおもわれる写真が次々送られてきており、最後の手紙にはメグを駅に呼び出すメモが添えてあった。
 この『霧の中の虎』は1952年、アリンガムのキャリアの半ばごろに発表された。年代によって作品にかなり違いがある作家だが、この『霧の中の虎』は現代的なサスペンス小説で、最終的にはハボックと名乗る殺人鬼の追跡がメインになる。作者の手腕は巧みで、無駄な文章がまったくない。
 たとえば第一章で霧を通して聞こえてくるジャズバンドの奏でる軍楽の音の描写はメグが亡夫の話をしたり、その姿が霧の中にたち現れたりしようというときに強調されて話しを盛り上げるが、このジャズバンド集団自体がのちのちストーリーに絡んでくる。
 3章ではロンドン警視庁のルーク警視と協力者のキャンピオン、メグの父親のアブリル司祭の三人がある変死体の検分に向かう。その途中の描写で強調されているのはやはり霧だが、その霧のロンドンの情景の中には4章冒頭で事情聴取される酒場のフォー・フェザーズの描写がさりげなく紛れ込んでいる。現場付近の様子(年老いた弁護士の事務所の裏庭)やルークによる細かい初動捜査の描写も重要だ。

「あのじいさんはひどく神経質なやかまし屋でね。毎週金曜日に署に苦情に言いにくるんですよ。今夜何か物音を聞いてないかな」

 現場付近の老弁護士の人柄はルークの口から語られるだけで、彼に聞き込みに行く若い刑事も描写も少ないが、彼らが生きて生活している姿が想像できる。そしてその分だけ4章最後の急展開の衝撃も大きいというものだ(それがどのようなものかは実際に確かめていただきたい)。
 このように確認してきてもわかるとおり、これらの小説技術は基本的にはサスペンスを引き立てるためにある。
 

濃霧をくぐってくる虎の息吹のように忍び寄ってきた。

というような巧さを通り越してあざとささえ感じさせる文章で、読者を煽り、偶然やすれ違いを演出し、読者を引っ張っていく。これはそういう小説だ。だが同時に、小説を読み進めていくと、霧の中にはもうひとつ、「戦争の清算」というテーマが潜んでいるような気がしてならない。
 アリンガムのこの小説では、ハボックを始め、作中で対決する人間たちは、みな何らかの形で戦争を引きずっている。その引きずり方も特殊で、彼らは戦争を懐かしんでいるのだ。ある人物は自分の生まれ持っての障害やそのために軍隊で思うように働かせてもらえなかったことを嘆き、ジェフリーの戦功十字勲章を「感に堪えぬように」眺める。また別の人物は戦時中のある作戦の思い出を楽しそうに語る。ハボックに至ってはもっと凄まじく、ある男に「戦争が終わったことも知らなかったんじゃないか」とまで言われてしまう。そのハボック、最終的にある集団を押さえつけてそのトップに立つのだが、そのとき取り巻きからかけられる言葉が、「まず仕官を選んでくれよ、大尉」

 もうひとつ、興味深いのはメグの現在の婚約者ジェフリー・レベットと前夫マーティン・エルジンプロッドそれぞれの人物描写だ。ひとりの戦災未亡人を通して、やはり戦争の清算を行おうとしているように思える。

「戦争というものを離れたあの人を見たことはなかったわ(中略)ほんとうのあの人をわたしは知らないのよ、多分。ええ、まったく知らない……」

 メグをめぐる二人の男性は、物語序盤では対照的な人間として描かれている。これは、ジェフリーが(生きているかもしれない)マーティンに嫉妬している事情もある。冒険好きのマーティン、堅物のジェフリー。この構図が作中で多少とも変化するのは110ページだ。戦争で精神を病んだある人物が、突如、ジェフリーのことをエルジンブロッドと呼ぶ。このときはただのたわごとと片付けられてしまうが、終盤でマーティンの残した手紙が見つけられ、ジェフリーとマーティンの性格の類似性をジェフリーやメグ自身が自覚する。その時、ジェフリーはマーティンと和解し得る。小説も終わろうというころにはメグの「心の中の喪は終わってい」るのだ。


II

 作者は、小説のサスペンス性を高め、同時に小説のテーマを表現するという二つの目的のために自身の技巧を最大限活用している。
 たとえば第4章。この章の最後ではいよいよハボックがその姿を現す。前述のとおり、その際の衝撃は大きい。ルークの上司オーツによって語られるハボックの殺人の詳細な手口も霧の中を闊歩する殺人者の存在を印象付ける。だがこれは同時に、最終章への伏線でもある。その細かい説明があるからこそ、最後の最後でハボックが犯す「あるミス」が引き立つのだ。
 ジェフリーの性格に関する伏線も、実はずっと前に張られている。ジェフリーは戦争でなくした財産を取り戻すために、投機で財産を作った経歴がある。賭けを恐れない冒険精神はジェフリーとマーティンの重要な共通項だ。巧みなのはこの「投機でひと財産つくった」という情報の出し方で、ある変死事件でジェフリーの関与が疑われるのだが、それに対するキャンピオンの「冒険を好まない性格 (だから事件には無関係だろう) 」だという弁護に対する反証として出てくる。おかげでこのジェフリーの性格的特徴の真の意味に気づくのは小説の終盤になってからだ。

 こうしたサスペンス性とテーマを同時に表現する巧みな小説技術の代表例が作中の「霧」だ。通行を妨げ、登場人物たちが難儀するこの霧は全篇を通してロンドンの街を覆う。しかしこの霧、小説のある段階できれいさっぱり消えうせてしまう。そしてそれと同時に、これまでまったく解決の糸口の見えなかった事件の手がかりがたちまちのうちに発見されるのである。天候を登場人物の心情や話の展開にあわせる、いわゆる「感情の誤謬」という手法は昔からよくあるし、上手く使えば効果的だが、この使い方は非常にわざとらしい。
 だが、この「わざとらしさ」こそ作者の意図するところだろう。この作品を特徴づけるもうひとつのものに「ツキの科学」というものがある。殺人鬼ハボックが信奉しているものだ。注意深く目を凝らしていればチャンスは必ずやってくるという独特の運命論。取り巻きから「宗教みてえだ」といわれ、嫌がるシーンがあるが、これは確かに一種の宗教だ。現にアブリル司祭も同じようなものを感じ取っており、彼はそれに導かれるようにしてハボックの居場所を知ってしまう。この二人の邂逅はこの物語のハイライトだ。「わざとらしい」霧の演出は二人の「ツキの科学」の議論によって、特別な意味を付与される。この霧によって「天候さえも左右する人知を超えた力の存在」が事件を差配しているような錯覚を読者に与えるのだ。これによって「都合よすぎるタイミングで霧が晴れる」ご都合主義は「運命」の演出になる。

「神が自分の僕を守った」
「この事件は悪魔的なところがあった」
「悪魔が入りこんだ」
「神の冒涜を怖れないでいえば、悪魔のしわざですよ、これは」

この小説の終盤では神、悪魔といった言葉が何度も現れる。作者は巧みに運命を演出し、まるで神が差配したかのように、それぞれの魂にふさわしい結末を用意する。
 戦争の色濃いこの小説は、素朴なアブリル司祭への「神の恩寵(かと錯覚してしまうような偶然の連続)」によってひとまずの秩序を取り戻し、幕が引かれるのだ。
 ただし、この小説のデウス・エクス・マキナは万能ではない。アブリル自身も認めているとおり、彼はハボック自身を救うことはできない。

 神学とキリスト教道徳とは、数限りなく生み出されていく偉大なる書物のなかにきちんと整理されて詰まっている。きびしい思いがアブリルの心に去来した。しかし、それが真実であるかどうか。だれかがだれかに何かを教えるなどということが果たしてできるものだろうか。そして、人に教えられてさとるなどということがありうるだろうか……

 この弱々しさは、やはり戦争の影響だろうか。あるいは時代のせいかもしれない。1950年代前半は戦後の復興期であり、大英帝国の衰退期であり、60年代の新しい文化の揺籃期でもある。1947年のインド、パキスタンが1948年にセイロン、ビルマが独立し、政治力は衰えていたし、文化的には西インド諸島からの移民が急増し、多宗教、多文化社会へと進んでいた。ビートルズ、ミニスカートなどの60年代文化の揺籃期で、おなじみのカントリーハウスは戦争で軍に接収されたり疎開先に利用されたりして荒廃していた。
 戦争と、旧来の社会、価値観の崩壊。
 「アプレゲール犯罪」という言葉は日本特有のものだそうだが、この言葉をハボックの一連の犯行に当てはめてみたくなる。1953年にアメリカで発表されたアイラ・レヴィン『死の接吻』との共時性はあるだろうか?

 いずれにせよ、ハボックの無軌道な犯行は探偵小説的というより犯罪小説やノワールの方がふさわしく思われるし、そのような小説を書くこともできそうに思われるが、そのようにはならなかった。『死の接吻』の主人公は最期に、かつて自分が戦場で殺した兵隊のことを思い出す。一方でハボックを導き、ふさわしい結末を用意するのは「運命」だ。アリンガムは戦争、戦後というものを独自に受け止め、その結果としてこのような戦争をテーマにした寓話が生まれたのではないだろうか。

霧の中の虎 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

霧の中の虎 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)