深海通信 はてなブログ版

三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

【第13便】2012年2月新刊レビュー(翻訳編)

続いて翻訳編。




ドン・ウィンズロウ『野蛮なやつら』(角川文庫)

 『犬の力』の読者なら背表紙のあらすじに書かれたキーワードの数々に心ときめくものがあるだろう。しかし、全編ひりつくような緊張感を期待すると肩透かしを食らうことになる。本作はウィンズロウのユーモラスな部分が色濃く表れた青春冒険小説なのだから。後進国の奉仕活動に熱心な平和主義者ベン、戦争のトラウマを抱えた元兵士チョン(口癖は「ざけんな」)、スピリチュアルに夢中の母親にうんざりしつつ自らはショッピング中毒者のO(オフィーリア)。三人は純粋で深い信頼で結びつき、麻薬の密売で成功を収めながらインモラルな快楽にふけっていた。このアンバランスさは逞しい野蛮人というより、どうにも掴みづらい軟体生物、ノータリンなクソガキだ。彼らの稼ぎに目を付けた、残酷さが売りで青息吐息のメキシカンマフィアの脅迫を突っぱねたために、Oが誘拐されてしまい……。
 カット割りのように、シーンごとに細かく分かたれた全290節の構成は、その実、話のドライブ感も細切れされたようで、よい効果を生んでいるとは言い難い。展開も大味な印象が強い分、詩情にあふれた文が悪目立ちする。唯一、ラストシーンでそれらが噛み合い、アメリカンニューシネマを切り取ったかのような美しさを呼んではいるのだが。
 映画化と続編の情報もあるが、やはりもっとスケールの大きいストーリーでウィンズロウの真摯な怒りを感じたいというのが正直な所である。だってこれじゃ垣根亮介にそっくりじゃん!(kaneo)@

ソフィ・オクサネン『粛清』(早川書房

粛清

粛清

 一九九二年冬、エストニアの小村に一人住むアリーダは、住人たちの嫌がらせを受けながら細々と暮らしていた。フィンランドに引っ越した娘の、たまの来訪を待ちわびるだけの生活。ところがある朝、そんな彼女の庭先に若い女性が横たわる。盗賊の罠か、新手の嫌がらせか。アリーダは疑惑に駆られながらも、その女性ザラを自宅に迎え入れる。出会うはずのない二人が巡り合った時、止まっていた運命の車輪が音を立てて動き出す。
 「狭義のミステリ」ではないどころか、広く取ってもジャンル小説とは言いかねる純文学作品だが、ここは何書いてもいいというのが売りのスペースということで紹介。
 七〇代でエストニア人のアリーダと二〇代でロシア人のザラ、二人のまったく異なる人生が、様々な手記や公的書類を交え重層的に語られていく。二人にはそれぞれ秘密がある。何故彼女たちは「ここ」にいる/現れたのか。二人の対話と、過去の回想がその秘密のヴェールを剥がして行く。ナチスドイツの敗北、エストニア共産主義化、ソ連邦の解体。押し寄せる歴史の大きな流れの中で生まれた、アリーダの「道ならぬ恋」が振り出しで、そこから全ての物語が描かれたことを、ザラは、アリーダは、読者とともに知るだろう。
 許しもなく容赦もなく、しかし静かな物語に圧倒される。2月の必読本。(三門)@

ヨハン・テオリン『冬の灯台が語るとき』(HPM)

冬の灯台が語るとき (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

冬の灯台が語るとき (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 昨年ポケミス新世代の一翼を担った『黄昏に眠る秋』に続く、スウェーデンの片田舎エーランド島を舞台にしたシリーズ二作目。今回は島の古い屋敷に首都から移住してきた若い家族の身に振りかかった事件が取り上げられる。
 屋敷には建設当時から死にまつわるエピソードが多く刻まれており、事故か事件か分からない今回の悲劇もまるで場が引き寄せたかのようだが……。現代については家族を失った夫、新任の女性警官、別荘狙いの空き巣犯の三者の視点を用い、屋敷が見てきた過去に関しては手記や昔話を通じて語られ、そうしていくつもの方向から徐々に外堀を埋めていくように話が進行する。北欧の島の冬の厳しい自然や幽霊屋敷じみた舞台など情景については落ち着いた薄暗い演出である一方、登場人物はよく動き、何か発見しては話が展開していく流れにロール・プレイング・ゲームをしているようなわくわくする感覚のあるのが面白い取り合わせだ。
 前作ほど謎解きの味付けは強くないものの、最終的に老人ホーム暮らしの元船長イェルロフが豊かな人生経験をもって疑問を解消してくれるというおじいちゃん探偵の活躍するスタイルは確立できている。このように話作りの上手さは充分だが、2作目にして甘さが見えてきたのは心情・人物である。まずまず書けているのが話の進行とも関わる夫の心情くらいで、こんな片田舎の島に赴任したての若い女性警官だとか、魔女じみた姑女だとか何人も面白そうなキャラクターが登場するのに掘り下げが不足していたのはもったいない。今回登場した彼らがより活躍できることにも期待してシリーズ続編を待ちたい。(てつろう)@

パオロ・バチカルピ『第六ポンプ』(早川書房

第六ポンプ (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

第六ポンプ (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 どこの世界も絶望で溢れている。「死と灰の人々」では果てなき強化の結果、砂を食って生きれるようになったものの地球環境や生命倫理は崩壊しているし、「タマリスクハンター」では政治的な「我田引水」が起こって地域ごとに深刻な水格差が生じている。「第六ポンプ」の人類は知能と出生率が著しく低下し、かつての有名大学は痴呆大学生たちの遊び場と化し、相対的にオーバーテクノロジーとなった機械を直すことが誰にもできなくなる。厳格な人口抑制政策がしかれ、出産を禁止された「ポップ隊」世界の主人公は「違法に」生まれてきた子供たちを殺して回るのを仕事とする。そして(長編『ねじまき少女』と世界観をおなじくする)燃料が枯渇し、あらゆるエネルギー(=生存権)が巨大アグリビジネス企業に牛耳られた「カロリーマン」「イエローカードマン」の世界。
 これらの世界は「未来が閉ざされている」という一点で共通している。明日も無く、希望も無く、生命がモノ扱いされ、人間が緩慢な死へと進んでいく世の中で、しかしバチカルピの描く主人公は生きることに貪欲だ。自らの知性を信じ、理不尽に耐え続けながら、より良い生き方を希求しようともがく。「それが人間なんだ」と、バチカルピは言いたいんじゃないかな。(ねまの)@

フェルディナント・フォン・シーラッハ『罪悪』(東京創元社

罪悪

罪悪

 高評価を受けた前集『犯罪』と比べて、地味な印象を与える第二作品集。しかし、むしろ本集はフォン・シーラッハという作家の本質をより強く捉えている。さて、このことが指摘されているかどうか寡聞にして知らないが、フォン・シーラッハの作風は、二次大戦後のドイツで流行した「掌編小説」の流れを汲む。フリードリヒ・デュレンマット『約束』(ハヤカワ・ミステリ文庫)解説で訳者前川道介が述べているが、ここでの「掌編小説」とは「非情奇怪な事件や運命に逢着した人間の哀歓の瞬間を即物的にスケッチした」ような作品を呼ぶ。
 フォン・シーラッハの作品の中で印象に残るのは、周辺情報を刈り込み、物語のコアを削り出した極めて短い作品、まさに「掌編小説」である。前集の「棘」や「緑」について、私は以前「ハイスミスパラノイア」と考えたが、ハイスミスもこういったスケッチを非常に得意としている点は指摘しておきたい(『女嫌いのための小品集』は傑作!)。
 本集で個人的に印象に残った作品を挙げれば、暴行の結果出来てしまった子どもを死なせ、捨てようとした少女(「寂しさ」)、大量の死体写真を運び、警察に捕まった男(「アタッシュケース」)、お役所仕事の残酷な不条理(「司法制度」)など。
 中途半端な長さのクライムノベル「鍵」などは読むに堪えなかったが、2011年刊の初長編はいかがなものだろう。今の流れならばいずれ紹介されるだろう。刊行が楽しみだ。(三門)@