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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

【第11便】「略称孤独の本読み」第三回:パトリシア・ハイスミス

 不肖私はパトリシア・ハイスミスという作家が大好きなんで、このブログの読者である皆さんにぜひオススメしたいと思って、ワープロソフトを立ち上げては見たが、しかしながら彼女は、よくよく考えてみなくても広く一般にアピールするような作家ではないということで、のっけからこんな面倒極まりない文体で始めようとする人間の文章など読むには値しないと考える良識ある人類は早速閉じるボタンを押すがよかろう……。

 という「オススメしない」芸は、スレイドで既に一度やってしまったので繰り返しになるのが残念だが、私の手持ちの作家はいかにも「オススメ出来ない」作家ばかりなので仕方がありませんな。さて、私がハイスミスをオススメ出来ないと書くその理由は、端的に言えば「話が面白くない」の一点に尽きます。ハラハラドキドキの波乱万丈なし、最後は正義が勝つ!の勧善懲悪なし、ジャンル的にはサイコサスペンスなのにとめどなく溢れるサスペンスなし、当然のことながらトリックもロジックもなし。何度でも言うが、そういった意味での「面白さ」はハイスミス作品にはほぼ皆無です。
 この特徴は、1980年代中葉から1990年代初頭にかけて市場に氾濫したサイコサスペンスジャンルの作品群、分かりやすい面白さを追求して、アメリカナイズドされた極厚小説(ローレンス・サンダースとか? 面白かったら今後取り上げたいですな)たちとは一線を画します。もっと分かりやすい例を引けば、ジェフリー・ディーヴァーか。彼ほど分かり易くオモチロイ小説を書く作家は、そんなにいないでしょう。そういうエンタメ路線とはもう全然違う訳です。

 私がパトリシア・ハイスミスを好きな理由は、なによりまず顔ですね。

 知的で退廃的でシニカルでしょ? 厭世的で透徹な瞳、意志の強そうな鼻。こういう女性を見るともう駄目ですよ。惚れろ。
 ああはい、小説としての美点ね。ハイスミスは、作中人物に対しておそろしく無関心、あるいは冷淡というか。平凡な人間が、些細なきっかけから陥穽にはまり、出られなくなって死んでいく様子を、横目でこっそり眺め、木でくくった鼻で笑いながら、どうでもよさげに書いていく。物語はじりじりと這うように始まり、転落の人生が淡々と描かれ、生き地獄としか言いようのない最悪に至りながらも、しかし終わらない。純文学的とも言われるこのハイスミス的世界は、ベストセラー、エンタメに慣らされた読者にはただ辛いものだと了解していますので……はい、読まなくていいです。面白くないなら読まないという人、非常に賢明。
 面白い女流サスペンスを読みたいよ、という人はむしろルース・レンデルの方をオススメ。こちらも性格ねじれまくり、後味最悪という口だけど、きちんと物語に起伏をつけて読者が飽きないように心を砕いているし、「次のレンデルが読みたくなる」しっかりしたエンディングを作るのが抜群にうまいので。読者サービスの作家なのですな。彼女については、また後日。

 それでもまだハイスミス作品を「読んでみようかな」という人は……ヨウコソ、悪夢の世界へ。




 全作読んだ訳ではないので断言はできませんが、ハイスミスの作品のプロットは大きく二つに分けることが出来ます。つまり、①「端から異常者だった(が、これまでそれを隠して生きてきた)サイコパスが登場」、②「ある些細なことをきっかけに危地に追いつめられる正常な神経の持ち主が登場」、これだけ。あとは順列組み合わせで破滅したり破滅しなかったりします。これだけだと、なんとも説明できないので、もう少し具体的に踏み込んだあらすじを書きましょうか。

 私が初めて読んだハイスミス作品は、『愛しすぎた男』(1960、扶桑社ミステリー)という作品。①タイプの典型的作品です。主人公の男性Aは、精密機械工場に勤める製図工。一見無害な男ですが、彼はある人妻Bを愛しすぎたあまりストーカー的行動に走る、とこれならまだ普通のサイコサスペンスなのですが……。
 主人公は田舎に一軒の家を購入。まったくの別名を名乗り、その家に暮らし始めます。そしてひたすらに妄想を働かせ、愛する人妻が夫と別れ、自分と一緒に暮らしているという脳内設定を再生し始めます。主人公Aは会社で働きながら、別宅に着くと脳内人妻BといちゃいちゃするA’になり、家を出て自宅に帰るとAに戻るという具合に、二重生活を満喫していきます。しかし、あまりにも不審なA’の行動は噂話となり、いつしか人妻の夫Cの耳に届くことに。自分の妻を寝とられた、と勘違いしたCがA’宅に押しかける……というところでようやく200ページ。前半戦終了と言ったところ。A・A’の人物像を、深く深く掘り下げていく前半を経て、悪夢のような物語が、しかし淡々と描かれていきます。
 Aの行動はあまりにも常軌を逸していて、到底理解できないと突き放していければ簡単なんだけど、しかし、切り分けたその一部分でも理解納得できてしまう自分が恐ろしい。大なり小なり知的で、周囲を見下していて、自分の判断に信を置き、否定する者には感情を爆発させる、じっくり厭らしく描かれた卑近なインテリ風男性像が勝手に破滅していくだけ。うーむ、何が面白いんだか。一つには人間一般に対する作者のシニカルである種身勝手な理解が、「俺ちょっと普通のミステリじゃ満足できないぜ」というえせインテリ魂をビンビン刺激するとかそういう風な感じがいたします。あと、人格破綻者にもオススメ。
 同系統の作品としては、覗き趣味が高じてメンヘラ女と恋に落ちる『ふくろうの叫び』(1962、河出文庫)、ハイスミスの人間理解が行くところまで行った感のあるスケッチ集『女嫌いのための小品集』(1977、河出文庫)あたりが面白いと思います。

 ②タイプを代表する大傑作が、『プードルの身代金』(1972、扶桑社ミステリー)。先の『愛しすぎた男』の次に読んだのがこの作品でしたが、爾来私はハイスミス様の虜です。
 ちょっと引き綱を外したのが運のつき、可愛いプードルを誘拐されてしまったお金持ちの老夫婦。姿なき犯人は1000ドルを要求する(40年前のレートは分かりませんが、多分数十万円くらいか)。大切な家族のためなら惜しくない、と大人しく支払ったにもかかわらず、犬は戻らない。主人公の警官は、そんな老夫婦のために犯人を探し始めるが……このように、なんかほのぼのとした書き出しなのですが、我らがハイスミスがそんなイイ話を書く訳ありませんね。犬は20ページくらいで殺されて捨てられています。酷い。
 若干過剰に正義感あふれる警官君が、悪辣な真犯人を追いつめる話だろうと大方の読者(私含め)は思うでしょうが、そういう話でもない。警官君は一度ホームレスの犯人と接触しますが、彼を説得しようとして失敗。せめて老夫婦に謝罪だけでもさせようと、再度接触を図った際に、誤って彼を殺害してしまい……というところで200ページ。前半戦終了。
 そこから悪夢の後半戦に傾れ込んでいきます。警官君は殺人容疑どころか誘拐の片棒を担いでいた疑惑まで着せられ、消えた500ドル(なぜか途中でホームレスが燃やす)の行方を吐くまで、延々延々延々本来仲間であるはずの刑事たちになぶられ続ける。時たま外に出ては、老夫婦はじめ地域社会の皆様に白い目で見られ、陰でひそひそ囁かれる(「健全で爽やかな青年だと思っていたのに、まさか……」)始末。ああ、マジで死にたい!
 で、終わり。カタルシスなし。何一つ決着がつかないまま、ぽーんと物語世界の外側に放り出された読者は、一体何に怒りをぶつけていいやら分からない。残酷で自分勝手な誘拐犯か? 主人公を信じ切れなかった老夫婦か? 勝手に罪を決めつけた刑事たちか? 実直過ぎた、間抜けだった主人公か? それとも、それらを冷ややかに描き続けた作者? このどうしようもないやり切れなさはハイスミスにしか書けない美点だと思います。
 一応同系統の作品を整理しておくと、冗談半分で妻を殺したことにして、毛布を裏庭に埋めてみたら、それを目撃され、起こっていない殺人事件の犯人にされてしまう『殺人者の烙印』(1965、創元推理文庫)、現実にはそんな勇気もないくせに、妻の浮気相手を殺したと嘘の告白をしたことから安定した人生を踏み外す『水の墓碑銘』(1957、河出文庫)あたりがオススメ。

 賢しく麗しい作者に近い視点から登場人物の愚かしさを笑っていると、いつしか自分自身もその愚人たちの輪に加わっていることに気づかされる。そんなハイスミス世界に嵌らない方が、きっと幸せな人生を送れたんでしょうネ。さようなら、健全な読者諸君! あ、今回紹介した本含め、ハイスミスの作品はほとんど全部品切れだけど、だいたい手に入るリプリー(1955、河出文庫)もそれなりに面白いから、これ読んで試してみてもいいかもデス。以上。また次回。(三門



愛しすぎた男 (扶桑社ミステリー)

愛しすぎた男 (扶桑社ミステリー)

プードルの身代金 (扶桑社ミステリー)

プードルの身代金 (扶桑社ミステリー)

リプリー (河出文庫)

リプリー (河出文庫)