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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

【第5便】ゲスト投稿席(第一回・前半)

ドロシー・L・セイヤーズ『誰の死体?』再読に寄せて

執筆:TSATO

 ドロシー・L・セイヤーズを評するのによく聞く言葉で「本国英国ではクリスティと並び称されている(ほどの)作家」というものがある。とはいえ彼女の作品は「本格ミステリ」という日本語で表されるジャンルに相当するものではない、あるいは「本格ミステリ」としてみれば、現代の日本の読者にとっては物足りないものだと思う。たとえば、クリスティ作品の「意外な犯人」が好きな人にセイヤーズを勧めてもおそらくはかばかしい反応は得られないと思う。そういう意味で、「勧め方」に注意しなければならない作家だという気がしている。というのは、昔セイヤーズを読み始めたころ、クリスティ的なものを想定したところ全然違った、という自身の経験があるからなのだが。

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 今回紹介する『誰の死体?』(1923)はそのセイヤーズのデビュー作で、シリーズ探偵のピーター・ウィムジー卿シリーズの第一作目となる作品である。話はピーター卿が古書の競売に出かける途上、目録を自宅に忘れるシーンから始まる。一旦帰ってみると、知人のフラットの風呂場で、金縁眼鏡以外全裸の正体不明の男の死体が発見されたという報告が入っていた。素人探偵として既に名声を確立していたピーター卿は、競売を従僕に任せて、自身は喜び勇んで現場検証へ向かう。現場検証を終え、また無事目的の古書を手に入れたピーター卿のところに、財界の大物、サー・ルーベン・レヴィが失踪したという知らせをひっさげ、友人のパーカー警部が登場。死体発見前夜に、問題のフラット付近でレヴィを見かけたという情報も併せ、件の死体は彼のものかと考えられたが、早々に別人だと断定される。死体の身元、富豪の生死、そもそも二つの事件の関連性、それらがまったくわからないまま、ピーター卿たちは捜査を始める。


誰の死体? (創元推理文庫)

誰の死体? (創元推理文庫)

 さて、まず強調したいのはこの作品は「犯人当て」の「本格ミステリ」ではない、ということ。すくなくともフーダニットがメインの作品ではない。この小説は全十三章からなっているわけだが、ピーター卿が犯人の正体(と偽装工作の全容)に到達するのが八章で、小説が終わるまであと五章、ページにして90ページ近くもある。当の犯人も、名前こそ最初のうちから出てくるものの、読者の前に実際に姿を現すのが六章と、かなり遅い。七章の最後では犯人に関する怪しい情報がピーター卿とパーカーの会話という、かなりあからさまな形で読者に与えられており、ピーター卿は八章までのあいだで犯人となる人物に一度も直接的な尋問を行っていない。また、七章ほどあからさまではないが、すでに六章の最後で、以前に伏線として提示されていた「動機」が再びクローズアップされている。この、「初登場から犯人として扱われるまでのスパンの短さ」を考えるに、「限られた容疑者の中からの犯人を当て」という要素は非常に薄いと思う。
 ちなみに事件の全貌(主に犯人の偽装工作)が明かされるのは十章で、主な興味はそちらにあるといえるかもしれない。その意味では「謎解きを主眼とした小説」ではある。これはセイヤーズがその後、殺害方法などの偽装工作に重点をおいた作品を多く書いているという事実とも符合する。ただし、この偽装工作は本格ミステリ的な「盲点をついた答え」が用意されたものではない。この小説の主たる謎は、「そもそもなにがおこったのか」であり、密室、アリバイトリックといった(あえて悪く言うなら)「お約束化」してしまっている「謎」を軸に話を進める小説とは一線を画す。

 では、この作品を読んだことのない読者に「こういう作品だよ」と説明するためのわかりやすい言葉をあえて探すなら何か。それは「冒険ロマン」ではないだろうか。『誰の死体?』は一種の怪奇冒険小説である、といったほうが「本格ミステリ」として紹介するよりも、作品の特徴をよく表しているかもしれない。
 類例を挙げると、スティーヴンソンコナン・ドイルが適当か。ドイルのホームズ物(に限らないが)やスティーヴンソンの『宝島』(1883)、『ジキル博士とハイド氏』(1886)のような作品と本書には通低したものがあるように思う。特に「風呂場に裸の死体がある」という、死体を使ったブラックなユーモアなどは、スティーヴンソンを思わせる。これは『ナイン・テイラーズ』(1934)の死体発見シーン(墓場から死体が発見され、知らせを受けた巡査曰く「まあ、場所はぴったり」)のように、後期作品でも見られるものでもある。ほかには、『新アラビヤ夜話』(1882)に登場するボヘミアのフロリゼル王子(そういえば、彼も一種の「貴族探偵」だ)の冒険譚なども、かなり近いのではないか。
 もちろん、ピーター卿の社交を装った容疑者の尋問などはこれら先行作品よりずっとフーダニット的だし、直接の登場はないものの、犯人の名前自体はかなり早いうちから出てきている。そういう意味では先行作品に比べ、ずっとDetective Story的だとはいえる。特に「伏線」に関しては非常に考え込まれており、犯人の名前だけでなく、動機、わざわざ風呂場に死体を放置した理由、犯人が犯行に有利な地理的条件にあることなどが、丁寧に示されている。前述のとおり、ピーター卿が犯人を尋問することはないから、その情報は第三者から得ることになるのだが、その際に、その人物のもっている情報よりも、当人の性格描写に焦点を当てることで、さりげない情報の提示に成功している。
 ただ、いずれの伏線にせよ読み返してあっと驚くタイプのものではなく、そのいくつかは(数が多いこともあって)途中で気づくことができるだろう。この情報提示の「さりげなさ」は読者の注意をそらすためというより、読者に対し、「ピーター卿が気づかなかったのも、まあ、無理はないかな」と納得させるためのものという意味合いのほうが強い気がする。探偵は気づかないが、二つの事件関係者としてさりげなく、だが何度も名前が出てくる人物。数々の伏線はその人物の登場シーンに備えた「前フリ」的なものではないだろうか。
 すなわちこれは、「二つの事件に関係する人間の名前がなんども出てくるので犯人がわかってしまうフーダニット」ではなく、「何度も何度も名前は出てくるが具体的な姿は一向に見せない犯人が、第六章に至って、初めて読者の前に姿を現す」という構成をしている怪奇ロマンなのだ。実際、そのとき描写される犯人の堂々とした外貌はまさに真打登場といった感がある。本書第二章ではピーター卿がパーカー相手に、現場の遺留品・物的証拠に基づく、本格ミステリ的というよりはホームズ的(もっと言うなら警察や鑑識がやりそうなこと)な推理を披露し、そこからさらに、そんな偽装工作をした犯人の不気味な姿を浮かび上がらせるのだが、この第二章などはこの作品の特徴を端的に示していたように思う。
 肝心の犯人像はやや大時代がかっているというか、今となってはさすがに古いと思うものの、細部描写がしっかりしているためあまり気にならないし、「自殺クラブ」の会長の延長線上にいる人物と考えると納得できる。また、非常に行動的な人物で、真相に達した探偵二人の殺害を企て、実にアクティヴに動きもする。ピーター卿をさりげなく殺そうとするシーンはこの作品のハイライトだろう。瀬戸川猛資がその著書『夜明けの睡魔』でイーデン・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』(1922)を評した言葉を借りれば、「クライム・ストーリイ」であり、「名犯人小説」なのである。